14. 虹の矢

 夫と娘を失い、家を焼かれた毬は仏門に入って名を巳句羅(みくら)と改めた。  巳句羅は仏教の修行をしながら、夫・国香(くにか)と娘・丹々(にに)のことを思い出さない 日はなかった。生前の丹々から聞いていた銀色の鯉の話を、巳句羅はずっと他愛のない作り話と思って いた。丹々が自害した後で丹々の言葉を頼りに鬼怒川を探し回り、その鯉を見つけた巳句羅は、鯉から 聞いた。「国香は将門に討たれる」、これはその通りになった。  もう一つ、「将門はあなたに討たれる」、これはどういうことなのか。国香の軍勢は将門軍に打ち 破られ、反撃する力は残っていない。ましてや自分には、軍勢を指揮し将門と戦う器量など思いもよら ない。  しかし、それでも自分が将門を討つことができるものか。「鱗を通して将門を見よ、そうすれば 将門の死が見える」、この意味は分からなかった。しかし、自分が将門を討つ、その意思は静かに 巳句羅の心の中に定着していった。  壊滅した平国香の軍勢であったが、一命を取り留め、復讐の念に燃える武者はいた。その一人、 剣持萬蔵(けんもち まんぞう)は弓の名手であった。将門軍との一戦で左腕に重傷を負ってからは 弓を構えることができなくなっていたが、傷を癒しながら右手一本による剣術を鍛え、将門への報復を 画策していた。その萬蔵は、巳句羅のいる禅寺に密かに出入りし、国香の敵を討つべく一門の棟梁に なって欲しいと巳句羅を説得していた。  巳句羅は将門を討つ執念をその心に押し隠し、将門への報復は忘れて静かに隠れて生きるよう萬蔵を 宥めてきた。  ある日、巳句羅は萬蔵に弓の極意を尋ねた。もはや自分には弓を射ることがかなわないと萬蔵は 言った。巳句羅は重ねて、矢を命中させる極意はあるかと尋ねた。萬蔵はしばらく黙っていたが、 静かな鋭い眼光を巳句羅に向けて答えた、極意は念の集中にあると。  巳句羅は銀色の鯉の言葉を萬蔵に話した。萬蔵はその鋭い視線を巳句羅から虚空へとそらし、伝え 聞く弓術の奥義の伝説を話した。萬蔵もまだ見たこともないその奥義とは、矢の届かない彼方の的を 射るというものであった。その鍛錬方法が全く伝わっていないことから、萬蔵にとっても手の届かない 奥義であった。ただ奥義書に依れば、それを究める者は虹色の眼光を放つとされていた。  虹色の眼光と聞き、巳句羅は袱紗を取り出した。その中に挟んであった、数枚の鯉の鱗を見た。 虹色に光るその鱗は、巳句羅が最後に鯉と話したときに鯉の頭から取り上げたものであった。その鱗を 指に挟み、透かして見ようとした巳句羅を萬蔵は止めた。奥義書には、七色の光は命の光であると書か れていたからである。  将門追討の執念を明かした巳句羅は萬蔵の申し出を受け入れ、萬蔵に一門の招集を命じた。  それからおよそ8カ月の後、将門は馬に乗り、二十騎の武者と三百人の徒歩と共に鬼怒川沿いの土手 を北上していた。丹々が自害した浜に参るためであった。  この将門を、国香一門、45名の武者が襲った。将門を取り巻く騎馬武者は動かず、取り巻きの歩兵 がこの45人を迎え撃った。この2年余り、鍛えに鍛えた国香一門の武者は多勢を相手に奮闘した。 しかし徐々に疲れ、一人二人と討たれ始め、その半数が倒れたと思われたその時、鬼怒川対岸の林 から、7名の武者が姿を現した。その中に、黒い頭巾をかぶった尼姿の巳句羅がいた。敵味方の奮闘を 馬上から見守る将門は、対岸の尼を見た。 二百間(200けん、およそ360m)離れたその尼を 見た将門は、それが亡き国香の妻女・毬と気づき、目をそらさなかった。  岸に立ち、遠くに騎馬武者と共にいる馬上の将門を見据えた巳句羅は何も持たず、左手を将門に 向かって伸ばし弓を構える形をした。右手人差し指と中指には、虹色の鱗がついていた。将門を凝視し ながらその鱗を両目にあてたとき、巳句羅の頭に激痛が走った。倒れそうになる体を萬蔵に支えられ ながら、遠のく意識の中で国香と丹々の顔が浮かんだ。巳句羅は意識を取り戻し、再び弓構えで鱗越し に将門を凝視した。  胡麻粒ほどだった二百間先の将門の顔が巳句羅の眼前に迫った。その瞬間、巳句羅の両眼から 虹色の光が発せられ、将門の眉間に突き刺さった。巳句羅はその場に倒れた。  将門は突然落馬しその眉間には三角の穴が開いていた、それが将門を取り巻いていた武者の言葉で あった。将門の死を知った騎馬武者も徒歩も蜘蛛の子を散らすように散逸し、将門の遺体は国香一門に よって取り上げられ、首実検のために京都に送られた。  砂浜に倒れ込んだ巳句羅を抱きかかえ、萬蔵以下七人の武者は林の中に消えた。巳句羅の顔には 黒い涙が流れていたが、萬蔵以外その意味を知る者はいなかった。林を抜け、巳句羅を馬に乗せた萬蔵 は、巳句羅の胸元から紫の袱紗を取った。その中に、まだ虹色の鱗が残されていることを萬蔵は知って いた。

13. 武者を睨みつける鱗

 巳句羅(みくら)は立ち上がって対岸の馬上にいる武将を見た。憎しみを込めてその武将の顔に 視線を止めた次の瞬間、武将は額から血を噴いて落馬した。気を失って砂浜に倒れ込んだ巳句羅を覆い 隠すように抱えた武者達は、足早にその川岸を去って森へと姿を隠した。  940年に平将門(たいらのまさかど)は眉間に矢を受けて死んだ。950年前後に完成された とされる武州新皇妙撰紀(ぶしゅうしんのうみょうぜんぎ)には、馬上にあった将門は対岸の敵軍から 飛来した矢によって討たれたと書かれている。しかし将門は矢で射られて絶命したのではない、突然 頭から血を流して落馬し、息絶えた。周囲の者が見た将門の眉間には、三角の穴が開いていた。その 直後に将門の亡骸は敵軍に取り上げられ、首実検に処された。  三角の穴のことを伝え聞いた将門の側室・澄(すみ)は、将門は矢で射られたと禅僧・瑞信(ずい しん)に伝え、後年の武州新皇妙撰紀への記述となったのである。しかし澄は知っていた。その三角の 傷は得物(武器)によってつけられたものではない、将門を憎む人の心によって空けられたものである ことを。そしてその将門を憎む者の心当たりもついていた。巳句羅という尼である。  巳句羅には娘がいた。僧門に入る前に生んだ娘である。娘の名は丹々(にに)と言った。丹々は、 常陸国筑波山西麓真壁郡の武将である平国香(たいらのくにか)と正室・毬(まり)との間に生まれ た。丹々は美しく育ち、近隣諸国から正室にと求められる姫となった。丹々は山野に良く出かけ、村 の若者と遊んだ。そんな丹々には秘密の場所があった。鬼怒川の淀みの一角である。  そこには銀色の鯉がいて、丹々はその鯉と話しができた。その鯉はこれから起こることをたびたび 丹々に話して聞かせた。竜巻や川の氾濫、戦や一揆、近しい者の死など、この銀色の鯉が言うことは 必ず訪れた。そんなある日、銀色の鯉は丹々に伝えた。近いうちにある武者とまみえるが、その者の 目を直視してはいけないと。丹々が理由を尋ねると、好ましからざる人物であると鯉は答えた。  それから数日後、平家を数人の武士が訪れた。当主・国香は丁重に迎えていた。宴席となった時、 毬と丹々は挨拶に出た。その時、上座にいた武士の眼光を感じ、丹々は思わず顔を上げた。その武士は 平将門であった。将門は丹々の美しさと振る舞いの優雅さを褒めた。  それ以来丹々は、将門のことが頭から離れなくなった。銀の鯉が語った好ましからざる人物とはこの 将門のことではない、丹々はそう自分に言い聞かせた。 程なく将門は正式に丹々との婚儀を国香に申し入れ、婚約は直ぐに整った。  将門家に嫁ぐ日も近いある日、丹々は鬼怒川の銀の鯉に会いに行った。鯉は言った、将門は国香 を討つと。丹々はそれを信じなかった。将門が自分を妻に迎えながら、その父を討って国を取るなど あり得ないと。それからは、丹々は鬼怒川を訪ねなくなった。  丹々は将門に嫁入りし、平穏な日々を過ごした。しかし嫁入りから2年余り経った夏、将門は東国 武士団の棟梁と担がれ、新皇(しんのう)を名乗り、京の朝廷との決別を宣言した。  逆賊・平将門を討て、宣旨による討伐指令が平国香に下された。丹々は反逆を止め、父・国香に 降伏するよう将門に頼んだ。一方忍びで父・国香の元を訪れ、降伏すれば反乱者の命を保証するよう 頼んだ。しかし両者とも退く気を示さなかった。絶望した丹々は自害して果てた。  毬は将門を憎んだ。将門は反乱者であり、正義は宣旨を持つ国香にある、そう信じて疑わな かった。自害する前の丹々から聞いていた銀色の鯉に会いに、毬は鬼怒川へ出かけた。  鯉は毬に語った、国香は将門に討たれる、そして将門はあなたに討たれると。自分の鱗を通し て将門を見よ、そうすれば将門の死が見えると。

12. 霊気と話す雷

   淡志摩神社に置かれている一対の孫の手。この孫の手で雷を掴む姿を見た宮司・佐伯篤左衛門義忠 (さいき とくざえもん よしただ)は日記に詳しいことを書き残さなかった。孫の手を受け継いだ 後代の宮司は、それを残した橘正雪が由比民部之助橘正雪(ゆい かきべのすけ たちばなの  しょうせつ)であったことを知った。慶安4年(1651年)に発生した慶安事件、すなわち幕府への反乱 の首謀者であり、翌年自刃した者であった。僅かに義忠の日記に書かれている橘の言葉、「あれは雷 ではなく、忠弥の霊気である。」の忠弥とは、慶安事件の共謀者、丸橋忠弥に違いないと考えら れた。  忠弥の霊気である、それが何を意味するか義忠は日記にも書き残していない。義忠が橘と共に裏山に 登った時には、丸橋忠弥は既に打ち取られてこの世にいなかったはずであることから、橘は雷によって 丸橋の魂と話し、その死、そして事件を起こした同朋の壊滅を知ったからこそ、この神社を出て駿河に 戻り、自害したのであろうと語り伝えられていた。  宮司後代の言い伝えは次第に変節し風聞となり、孫の手が雷を呼んだ、孫の手が雷を発した、 由比正雪がこの孫の手で江戸城を爆破したらしい、など孫の手の威力が伝説と化した。それと同時に、 そんな威力があるはずもない、単なるおとぎ話だと考えられるに至った。  この孫の手の威力をどこからともなく聞きつけて、戦闘に利用しようと考えたのが勝安芳(かつ やすよし)であった。勝はこの孫の手だけでなく、巷の妖しい伝説や風聞を集めさせ、明治政府軍の 武器となり得そうな力に当たりをつけると、その真偽を確かめるべく奔走していた。  巷の伝説など当てにならないと嗤う者が多かったが、「日本に鉄砲や蒸気船が来た時も、自分の 目でそれを見るまでは、最初は誰も信じられないものであった。何事も己の浅い見識から決めてかか らず思い込まず、実物を見聞して確かめろ。」、それが勝の信条であった。  勝の申し出を聞いた宮司、佐伯太郎右衛門達時(さいき たろうえもん たつとき)は孫の手 のことが記述されている義忠の日記を勝に見せ、代々の伝聞も話した。実は橘以来、誰もその孫の手 で雷を呼ぼうとした者はなく、むしろ恐れられて本殿の奥に安置されたままであった。  勝はその孫の手を使ってみたいと達時に頼んだ。遠まわしに断っていた達時も、勝の実直な人柄と 真摯な態度に折れ、ついに孫の手を本殿から持ち出した。  生成りの布に巻かれた2本の棒を携えた達時は、境内に待たせた勝に恐る恐るそれを手渡し、 その身を引いた。  勝は布に巻かれたままの孫の手を持って、部下2名と共に裏山に登った。  それからしばらくして境内で待つ達時に、裏山に突き刺さる稲妻が見えた。達時はその時の様子を 日記に書き残している。  「勝様が裏山に登って半時後、確かに空は暗転し、裏山に雷が落ちた。ただし、凄まじい雷光と は裏腹に、雷につきもののあの爆音はなかった。程なく勝様は降りてこられ、布に包んだ孫の手を私に お返しになった。もはやご無用かと尋ねると勝様はこう言った。これは使うなと坂本が言った、これは 武器ではないと。付いていた2名の者はいずれも驚愕した表情をしていたが、口を固く結んで何も語ら なかった。」  その10か月後、勝が用いなかったこの孫の手を求めて淡志摩神社を訪れた者がいた。それは、 勝に同行して裏山に登った部下の一人、そしてもう一人、化幻玄師(けげげんし)を名乗る男で あった。

11. 雷を掴む孫の手

 和歌山県和歌山市加太にある淡志摩神社(あわしまじんじゃ)には、およそ25000体の人形 が奉納されており、人形の宮と呼ばれている。この淡志摩神社の人形に紛れて、一対の孫の手が置か れていることはあまり知られていない。この神社の宮司には代々、この孫の手の奇妙な力が言い伝えら れている。この孫の手は、雷を掴むというのである。  昭和に入って科学の進歩が民間にも科学的知識の浸透をもたらしたことで、森羅万象が科学的な 現象として語られることが多くなった。そういう時代の変遷に伴って淡志摩神社の宮司も総代も、孫の 手が雷を掴むという言い伝えを迷信と考えて疑うことなくない、思い出すことも希になってきている。 しかしこの神社に伝わる宮司の日記には、かつてこの孫の手で雷を掴んだことが記述されているので ある。  慶安4年(1651年)8月11日から数日に掛けての日記に、時の宮司・佐伯篤左衛門義忠(さい きとくざえもんよしただ)はこう書いている。 「伊勢の国より旅人が来た。橘正雪(たちばなまさゆき)と名乗り、しばらく逗留を希望した。橘殿 は体のいたるところに傷を負い、逃亡中の様子であった。詳しいいきさつを問わず、橘殿を泊める。 離れの部屋に置いて食事と衣服を与え、道助(みちすけ)に世話をさせる。」 「道助によれば、橘殿の傷は切り傷や穴であり、刀や鉄砲によるものであろうと。大坂夏の陣から 36年も経て戦乱の世は過去のことであり、鉄砲による戦闘が容易にあるはずがない。」 「追手は御上か公儀かもしれない。しかし、橘殿の澄んだ目と堂々とした立ち居振る舞いを見れば、 悪人とは思えない。」 「傷もほどほどに癒えた晴天のある日、橘殿が裏山に登るというので付き添った。頂に着くと橘殿 は棒のようなものを二本取出し、空に向けて振り上げ交差させた。見れば、孫の手のような棒で あった。その刹那、俄かに天空が雲に覆われ辺りは暗闇と化したかと思うと、目が眩むほどの稲光が 橘殿を直撃した。その雷を、橘殿は二本の孫の手で掴んだ。しばらくの間、五つ数えるほどの間か、 雷を捉えたまま直立していた。その様子はまるで、激しく暴れる光の蛇の尾を捕まえているようで あった。橘殿は雷を放し、雷は宙に消えた。空は再び、晴天に戻った。不思議極まることであった。」 「裏山を降りた橘殿は、自分に二本の孫の手を預け、どこへともなく姿を消した。」 「橘殿は言い残した。あれは雷ではない。わが友、忠弥の霊気であると。」  橘正雪と孫の手に関する義忠の記述はこれで終わっており、佐伯篤左衛門義忠の日記には出て こないが、橘正行は淡志摩神社を去った六日後に駿河国(するがのくに)において自刃した。 この橘正行は由比民部之助橘正雪(ゆいかきべのすけたちばなのしょうせつ)であったことを、義忠が 知ったか否かはわからない。   慶応4年(1868年)1月2日、時の宮司・佐伯太郎右衛門達時(さいきたろうえもん たつとき) の日記に、雷を呼ぶ孫の手を探して訪ね人があったと記されている。日記に依れば、訪ね人の名は 勝安芳(かつ やすよし)、雷を操る孫の手の秘密を研究し、英国と戦う武器にしたいとの申し出 であった。

10. 命と意思を持った水を探す者1

 暗水。命と意思を持った水。暗水が地を這うとき大蛇と恐れられ、空に昇るとき龍と呼ばれ 麒麟と称えられ、海を渡るとき人魚とも愛でられた。暗水は、それを見る者の心を写した姿に見え たのである。  暗水を飲んだ者は異常な力を得る。仏僧、修験者、祈祷師、忍び、侍など自身に特殊な力を 得るために修行を常とする者の間では言い伝わっていたが、実際の体現者を知る者はほとんどいな かった。それは、暗水によって特殊な力を得た者は、それをひた隠しにして人にその旨を伝えない からである。得体の知れない暗水の力、それでもその力を求めて暗水を探す者、あるいは暗水探しを 請け負う者もいた。この請負人の多くが、前金を受け取って姿をくらます詐欺師であることも広く 知られたことだった。しかし、知る人ぞ知る、暗水探しの秘伝を持つ者がいた。その者は、一子相伝 によって古来より暗水探しの技を受け継いできた。  暗水探しの秘伝には五つの系統がある、その秘伝は系統ごとに隔絶して伝えられ、お互いに技 を明かさない掟であった。暗水を探す秘伝の一系統、紫法印(しぼういん)を継承する者は代々 雅丈斉(がじょうさい)を名乗った。  明治5年、岡山県苫田郡鏡野町にある蛇谷の滝(じゃこくのたき)において逆流する滝の水を 掴み、その水に連れ去られた雅丈斉は綾丸(あやまる)、まだ紫法印を継承せず雅丈斉を名乗ること を許されていない修行中の身であった。元来暗水探しの秘伝を継承する者、それを志す者は全て、 その公言を禁じられていた。綾丸は暗水探しを語ることができず、自身の身分を化幻玄師と偽り ながら、名前は雅丈斉と名乗ったのであった。  逆流する瀧の水と共に姿を消した綾丸は、およそ1日を経て蛇谷の滝からはるかに離れた岩山 の上にいる自分に気付いた。逆流する瀧の水を掴んだ左手は、赤黒く変色して動かなかったが、僅かに 感覚はあった。紫法印を会得する修行において学びつつある念を左手に込めて、逆流する瀧の水、 一見大蛇に見えたその水の尾を掴んだが、まだ未熟なその念では暗水を御するには至らなかったので ある。中途半端な念で暗水の力と交わることは、師に諌められていた綾丸であったが、逆流する水を 見て興奮した綾丸はとっさに左手にその念を込めて掴みかかったのであった。未熟な念で暗水に触れれ ば体が壊死しかねないと師に言われていた。自身の左手を見た綾丸は、手の壊死を予見して怯え、岩の 上から動けなかった。  その綾丸の背後に、一つの長身が音もなく舞い降りた。左手が朽ちる、その絶望感によって座り 込み微動だにしない綾丸の前に廻り、その長身は片膝をついた。綾丸はその者に邪気も恐怖も感じな かった。その者は綾丸の左手を掴んで無表情に眺めたかと思うと、綾丸を担いで立ち上がり、その岩山 を飛び降りた。その者は綾丸と共に岩から岩へと飛び移りながら、岩山を下った。空中でその者は自ら を化幻玄師・鬼灯(ほおずき)と名乗った。その声を聞いた綾丸は、それが女であることに気付いた。 綾丸を担いだ鬼灯は湖に飛び込んだ。

9.下から上へ流れる滝

 岡山県苫田郡鏡野町、木路川の上流にある蛇谷の滝(じゃこくのたき)は、かつて岡山藩によって 近寄ることが禁じられていた。この滝には不思議な現象が起こり、その水には不思議な作用があると 伝わることから、藩はその利用を禁止するために、藩主の命令としてその滝を隔絶していたのである。 明治4年7月に廃藩置県によって岡山藩の取り締まりが無効となるまで、その隔絶は守られていた。  この滝の水は日の出の一瞬、下から上に向かって流れた。その時の様子が、まるで大蛇が滝を遡上 するがごとくであることから蛇谷の滝と呼ばれている、それが通説である。普通に流れているその水は 単なる清澄な水だが、逆流しているときの水こそが特別な性質を持っていた。  この世には二種類の水がある。明水と暗水である。地に湧き、川を流れ海にそそぎ、あるいは気化 して水蒸気となり、雲となり雨になって地に還流する。これは物質として循環し、生命の居所を造って いる水、明水である。一方で、意思を持って行動する水、命を持った水がある。これが暗水である。 暗水は、時に明水と溶け合って流れ、時に霧と化して空を漂い、時に塊となって地を走る。地表から 天空に駆け昇る暗水を見た人々は、龍と呼び、麒麟と称えた。  蛇谷の滝が逆流する、いつ始まったかわからない言い伝えは岡山藩、改め岡山県では知れ渡っては いたが、その理由を詳しく知る者は巷にはいなかった。藩の命令で近づけないのが常識となってから は、その理由を気にする者はいなかったからである。 蛇谷の滝が逆流する、県外からこの言い伝えを 聞きつけて興味を持ち、これを見に来た者がいた。明治5年のことである。その者は自らを化幻玄師 (けげげんし)と称し、雅丈斉(がじょうさい)と名乗った。長髪のためにその顔をはっきりと見た 者は少ないが、物腰と声から、若い女だった、と近くの寺の住職はその日記に書き残している。  雅丈斉は何夜にも渡ってこの蛇谷の滝のほとりに陣取り、その逆流を見ようと日の出の一瞬を待っ た。その全てに付き添ったのが、日記に雅丈斉のことを書き記した仏僧、允俊(いんしゅん)である。 允俊が住職を務める浄土真宗本願寺派光明寺は岡山県苫田郡鏡野村(現在の鏡野町)に古くから営ま れた古刹であったが、廃仏毀釈運動によって明治6年に焼打ちに合い、その寺院は全壊した。寺本殿の 焼失直前に允俊が仏典と共にその日記を持ち出し、昭和に入って再建された同名の寺院に伝わり保管 されている。蛇谷の滝のほとりに泊まり込むこと33日目にして、雅丈斉と允俊は滝を遡る竜の如き 流れを目にした。その激しい姿に圧倒され立ち尽くす允俊を横目に、雅丈斉はその竜の尾を掴んだ。 そのまま雅丈斉は、水の竜と共に滝を逆上し姿を消した、允俊の日記にはそう書かれている。そして 允俊はこう締めくくっている。蛇谷の滝を逆流した竜の如き流れは、暗水であったと。  雅丈斉が尾を掴み引き込まれた暗水。かつてこの滝において暗水を掴みだし、飲み込んだ者がいた。 その者も仏僧であった。その後その仏僧は奇怪な力を発揮し、多くの奇跡を起こし、大勢の病を治し た。時の天皇、孝謙天皇の命を救ってからは、宮中に出入りするようになり、ついには皇位の簒奪を 目論んだと言われている。岡山藩が蛇谷の滝を封印し続けたのは、伝説となったその奇怪な力の発生を 恐れたからである。  暗水を飲み込んだ仏僧、それは弓削氏(ゆげし)の出身で、道鏡といった。天平感宝年間(西暦 750年代)、すなわち奈良時代のことである。

8.老女は古寺を守ってきた

 過去に悲しい経験を持つ者が凰寿寺を訪れると出くわす老女、セミ。そのセミに悲しい過去を語った 者は過去をやり直し、後悔を絶ち、汚名をすすいだ。セミに頼めば過去を変えることができる、そうい う伝わり方もあった。  凰寿寺には一体の獅子像が置かれている。通常神社仏閣の入り口を守る獅子や狛犬は口を開いた 阿形(あぎょう)と口をつぐんだ吽形(うんぎょう)との二体一対であるが、凰寿寺では吽形(うん ぎょう)のみがいる。その昔は二体あったがある出来事を境に一体となった。この一体の獅子がセミ であるという言い伝えは昔からあった。それは、セミと会って過去に戻り我に返った者は皆、獅子像の 前にいたからである。  寺院の入り口にいる獅子は寺院を守護していると思われているが、実は守護しているのは寺院ではない。獅子は寺院の周囲に群がる魑魅魍魎から参拝者を守っているのである。悲しみや後悔によって 傷ついた心を持つ者が参拝に来ると、本尊に近づくに従ってその心はさらに裸になり弱くなっていく。 それは仏に頼ろうとする気落ちがあらわになっていくからである。寺院の周りをうろつく魑魅魍魎は その心の隙に付け込んで、参拝者を悪鬼へと変容させることがあるのである。それを防ぐために、獅子 は寺院の入り口にいて、魑魅魍魎が目を付けるよりも先に、悲しみや後悔に傷ついた参拝者の心を癒し ていたのである。  この獅子は、寺院の本尊が遣わした使者であり、本尊周囲の一定の領域にしか居ることができない。 過去に悲しい経験を持つ者が凰寿寺に近づくにつれ獅子に近づき、その者には獅子が老婆に見えるので ある。老婆は、人が最も気を許し心を開く存在なのであろう。そしてその老婆に、まるで子供のように 悲しみや後悔の念を語るのである。老婆、いや獅子は、その者を過去に引き連れ、過去をやり直す機会 を与え、そして元の時間に連れ戻った。  セミを探せ。1187年に安徳天皇の詔(みことのり)をもって凰寿寺に現れたのは平知盛であった。  知盛はセミにまつわる伝承を調べ上げ、セミは凰寿寺の獅子像であると確信していた。知盛は付近の 農民に金を渡し、この獅子像を凰寿寺から運び出して自身の仮陣屋に移設させようとした。つまり、 凰寿寺本尊の領域から外へ持ち出してしまったのである。獅子の力が発揮されなくなったその瞬間を、 魑魅魍魎は見逃さなかった。  魑魅魍魎の中の一体が知盛に入った。知盛は変貌した。壇ノ浦の合戦で失われた左肘から先に黒い 腕が生え、額からは黒い角が突出し、その両眼は青い光を発した。悪鬼と化した知盛は獅子に跨って たてがみを掴み、火炎を吐きながら獅子を駆り立てた。石の獅子に乗った知盛は、もはや己の使命、 安徳天皇の下命を忘れ去っていた。そう、セミの力を借りて過去に戻り、義経軍を破って京を奪還 せよという勅命である。

7.創建2520年のお寺

 2019年において創建2521年を迎えると言われる寺院があり、その周辺には奇怪な話が伝わって いる。その寺院に参拝すると老女に出くわし、その老女と会話すると昔に遡ってやりなおせるという のである。そういう老女との遭遇が果てしなく昔から語り継がれている。  創建2521年とは、皇紀158年、西暦では紀元前502年にこの寺が建てられたということを意味 する。創建年は信頼性の高い資料に記述されているわけではない、その周辺の人々の口伝による ものであるが、人によって異なる数字が語られることはない。  その寺院とは、岡山県井原市芳井町の凰寿寺(おうじゅじ)である。平成に入ってこの寺に 住職はおらず、地元の人々によって辛うじて本堂と門が維持されているものである。  多くの者がこの寺の周りを歩く老女に会っている。その老女とは芳井町の住民ではない。 昔から芳井町一帯の住人にはその老女を見かけたり、その老女と話をしたことがあるという者が後を 絶たなかった。それらの者は皆、口を揃えて凰寿寺周辺以外では見かけたことはない、この辺りの 住人ではないと言った。世代に依らず、これはずっと昔から語り伝えられていることである。その 芳井町一帯の住人でないというが、その容貌をはっきりと覚えている人はいなかった。容貌や声となる と、何も思い出せないというのである。ただ、人によってはその老女は名乗ったと言った。 名を尋ねると、セミと名乗ったというのである。  その老女に会った人はみな、自らの悲しい経験を話し込んだ。いや、悲しい経験を心に刻んだ者 の前にこそセミが現れたのである。セミに出くわした者はまるでそのために老女を訪ねたがごとく、 その悲しい経験を話した。全てをなぞるように語った。時間を忘れて話しに没頭し、そして、今なら こうしたああしたと、ああはしなかったこうはしなかったと、その昔のできごとの後悔と悲しみを語り 尽くした。それを語り終え我に返ると、老女の姿はなく、凰寿寺の門の前に一人立つ自身の姿に気付い たのであった。そしてその者は二度と、セミに出会うことはなかった。いや、出会う必要がなくなった というべきか。自身が持っていた悲しい経験と重なって、過去に戻って過去をやり直し後悔のない現在 に至っている姿が頭に噴出してきた。それと共に、老女に会って人生をやり直したという意識は鮮やか に残り、それを人に伝えそれが語り継がれた。こうして積み重ねられた伝承に伴って寺の創建年も数え られてきたからこそ、数字があいまいになることがなかったのである。  セミを探せ、2500年余りの凰寿寺の歴史の中で、権力者からその指令が下されたことは何度も あった。多くの伝承は他愛もない戯言とされて現実視されないものだが、苦境に立ち苦難の渦中に あってその解決に手段を択ばない精力を持った者は、言い伝えさえ利用し使いこなそうとするので ある。  セミを探せ、1187年の初頭に安徳天皇の勅諭を携えて、凰寿寺住職・宣明上人(せんみょうしょ うにん)のもとを、共もなくただ一人で訪ねた侍がいた。左肘から先がなく朽ちかけた粗末な身なりで あったが、深い刀傷痕の奥で鋭く光る眼光を湛えたその男は、全身からその炎のような生気をみなぎら せていた。  平知盛(たいらのとももり)と名乗った。その名は、平清盛(たいらのきよもり)の四男、壇ノ浦の 合戦で源義経(みなもとのよしつね)と戦って闘死したはずの武将であった。

6.妖花は人を幸せにする

 花の核に赤い石を付ける桜、石桜。正確な所在は定かではない。その赤い石が高価な宝石、ルビーで あると流布された明治末期に大勢の人が石桜を探し周ったことがあった。そのうちの数人がおかしな死 を遂げてからは、その探索は禁忌と考えられるようになった。この死んだ人達はみな、この上なく幸福 になったのである。正確に言えば、極めて高い幸福感に浸りきり、まるでありとあらゆる欲が消えうせ たように何もしなくなった。座ったまま飲食もしなくなった。ただ笑顔で宙を見てただひたすら石桜の 美しさを称える話ばかりを続けた。そしてついには衰弱し切って、満面の笑みを湛えたままで死に至っ た。その光景を知る者は皆、石桜の祟り、赤い石の呪い、石を取ったばちが当たったなどと恐れ、石桜 を探してはいけないと周囲の人を諭したのである。  ルビーともてはやされたのは明治の終わりだったが、石桜を探してはいけない、これは江戸時代 初期から岡山藩においては言い伝えとなっていた。時代を経て次第に忘れ去られていったのであった が、明治末期にルビー騒ぎで再燃を見たのであった。  江戸時代初期には、岡山藩の人々に石桜を恐れさせた事件があった。当時はその赤い石が高価な 宝石と考えられたわけではなく、純粋にその花と石の美しさが語られながら、それを語る者が微笑み ながら死んでいく姿を見て、人々は石桜を探すべからずと伝えていたのである。ところが、多くの人々 が石桜を恐れるのとは対象的に、石桜は不思議な力を持つと、見た者を微笑みと共に死に至らしめる 力を持つと理解する者が岡山藩士の中にいた。  この妖しい桜は、少なくともソメイヨシノではない。ソメイヨシノとは、オオシマザクラの雑種と エドヒガン系の桜との交配によって江戸時代末期に生み出された日本固有の桜である。こうして生み 出された雑種は種を付けない。そのために、挿し木によってのみ増やすことができる。種が飛散して 自然に増えていくことはないので、海外にあるソメイヨシノは、日本から持ち出されたものである。 有名な例では、アメリカ合衆国ワシントンDCのポトマック公園周辺にある数百本のソメイヨシノは、 1912年に日本政府が寄贈したものである。  不思議な力、妖しい力、あるいは跳びぬけた力があると、それを利用して我欲を満たそうと する者が出てくるのが人の世の常である。江戸時代初期の岡山藩に、石桜の噂を聞いてその不思議な 力を自身の敵を滅ぼすために使おうと考えた者がいた。小野沢完武(おのざわ かんむ)、豊臣家 五大老の一人・宇喜多秀家(うきた ひでいえ)の鉄砲方頭(てっぽうがたかしら)を務め、秀家の 没落と共に岡山藩を去った武士である。  小野沢完武は主君・宇喜多秀家の排斥を企む岡山藩国家老・堀之内幸嗣(ほりのうち ゆきつぐ)を 暗殺するべく、石桜を使おうとした。つまり、相手に石桜を見せて、死に至らしめようと考えた。その ために、完武はある者を呼び寄せ、石桜を探させたのである。その者は、妖怪であったと言われている。

5.ルビーの核を持った桜

 江戸時代初期からその存在が細々と言い伝えられてる妖花がある。その花は赤く、花弁の中心には 赤い石が付いている。その石とはルビーである。  その花の所在は目木川沿いの森といわれながら、はっきりとしていない。目木川とは、岡山県真庭市 大庭で旭川に合流する全長9kmほどの川であり、その流域面積は約22平方㎞であって山野としても 広いものではないが、そのどこにあるか確かめた話は伝わっていない。その花を見たと語った者はこと ごとく、その翌日にはその花を見たことを忘れてしまっているために、その話を聞いた周囲の者が方々 に伝えた伝承が微かに語り継がれているが、それを信じる者は少ない。微かに伝わっている話しでは、 その花は桜の一種と言われており、石桜(いしざくら)と呼ぶ者もいる。  そのルビーは採取され保存されている。いや、とある寺に石桜から採ったと伝わる石が保存されてい る。岡山県真庭市下中津井にある日蓮宗妙厳寺である。ここに保存されている石桜の石は明治の終わり ころ、この寺を訪れた鉱物学者が本堂に飾られている姿を見た折に、ルビーであろうと言われたことが ある。約5㎜×約5㎜×約20㎜の長円形のその石はそれまで石桜の石と呼ばれるだけで、誰も鉱物学的な 鑑定に出したことはなかった。鉱物学者によってそれがルビーであろうと言われてからは、ルビーを手 に入れようと石桜を探す人が大勢現れた時期もあった。それでも石桜は見つからず、探し回った者の中 に死者が何人も出てからは、もはや探し回ることは禁忌と考えられるようになった。その死者の死に方 が不可解だったからである。  元来、花はなぜ咲くのか。花はその植物が種を着け繁殖していくために咲くのである。花は様々な色 を示し芳香を放ち、その色や匂いに魅かれた虫や動物が花に触れる時に花粉が付着し、虫や動物が花を 渡り歩き別の花に触れるときにその花粉が他の花の雄蕊(おしべ)と出会って受精する。それが果実と なって種へと変化し、繁殖へと進んで行くのである。美しさや香りに魅かれて花を求めるのは虫や動物 ばかりではない、人もまた花を愛でる。とりわけ日本人は桜に特別な愛着を感じる。石桜は、人をおび き寄せるためにルビーを付けるのである。そしてルビーを手にした人は生き永らえてはいない。石桜が 人の命を吸い取ったからである、そう考えるものが多くなって石桜探しは禁忌となったのである。  その禁忌を踏み越えて、石桜のルビーを持ち帰って妙厳寺に供えた者がいた。その者は自らを 化幻玄師(けげげんし)と称した。石桜のルビーを妙厳寺に託し、いずれ取りに来るから預かってお いて欲しいと言い残してどこへともなく去ったという。  その化幻玄師の右目は塞がっていたと、妙厳寺の住職は自身の日記に書き残している。