24. 酒と鬼を探す男2

 喜太郎は夜明け前の旭川の水の中にいた。日の出の一瞬に現れる紫の酒、鶴翔(つるはね)に 出会うためである。前日に泳ぎ廻って地形を確かめているとはいえ、漆黒の川の中では川岸や木々の 黒い影以外には何も見えなかった。喜太郎はただ静かに立ち泳ぎをして感覚を研ぎ澄まして待った。 人の気配も妖気も感じられなかった。  空が白くなり川面が微かに照らされてくると、昨日と同じ微かな妖気が全身に響いた。次の瞬間、 喜太郎は迷わず口一杯に川の水を飲んだ。まさしく酒である、それもこれまで経験したことのないない まろやかで清々しくコクのある不思議な味わいを感じていると、目の前にはかつて愛した女と共に木の 枝を飛び移りながら話をしていた懐かしい光景が広がった。  その女は町人の娘の姿でいつも現れていた。喜太郎と会うときには人目を忍び、岩場や林の中や 木の枝の上など、人のいない険しい場所を望んだ。その女は自らの素性を明かしていなかった。喜太郎 にとってそれを調べるのは簡単だったが、敢えて詮索しないままにしていた。それでもその女の並々 ならぬ身のこなしを見れば、それが単なる町人のものではないことは明らかだった。喜太郎は不可思 議な現象を調べる化幻玄師でありながら、武術体術の鍛錬も怠らなかったために、その女の望む険しい 場所での待ち合わせにも応じられた。二人の間に直接的な愛の言葉はなかったが、不可思議な現象を 求めて旅を重ね魑魅魍魎を相手にすることが多い喜太郎にとって、その女と一緒にいるひと時が気持ち の休まる数少ない機会であった。  木の枝を飛び移りながら女と話をしていると、束ねていた喜太郎の髪に木の枝が引っ掛かった。 頭を強く後ろに引っ張られた喜太郎の手から女の手がほどけ、その女は自分をおいて向こうの枝に 飛び移った。喜太郎は、自分に背を向けて行ってしまいそうになるその女の名前を呼んだ。蓮佳 (れんか)、そう叫ぶ喜太郎はどんどん髪を上方に引っ張られ、木の枝から離れて宙に舞いあがり、 女から遠ざかった。  自分が水の中にいて底に足が届くことに気付いた喜太郎は我に返って泳ぎ、息を切らしながら 川原を歩いて水から上がった。周囲はほのかに明るくなっていた。川原にひざまずいて咳き込みなが ら水を吐き出してから見上げた先に、ずぶ濡れの女がいた。昨日川から上がった時に出くわした女で あった。濡れてはだけた着物を整えながら、その女は喜太郎を叱った。なぜ暗い川で泳ぐのか、酔っ 払っているのか、死にたいのか悪ふざけかと。自分は溺れかけてその女に助けられた、喜太郎はやっ と事態を理解した。  喜太郎は礼を言った。そしてこれは自殺でも悪ふざけでもなく、昨日話した伝説の調査である ことを改めて説明しながら、女に名前を尋ねた。丸岡、そういって女は背を向け、ふんどし姿の喜太郎 に着るものはないのかと言った。喜太郎は走って服を取りに向かった。服と荷物を置いて川に飛び込ん だ場所までは、200mほどもあった。ふんどしをはためかせながら尻を出して走る喜太郎の姿に、丸岡は 吹き出して笑った。  喜太郎は前日、宿代を節約するためにと国鉄福渡駅に寝たが、この日は今朝飛び込んだ川から ほど近い八幡温泉に宿を探した。八幡温泉には温泉街というほど多くの宿はなく、7件ほどの旅館が 疎らにあるだけであった。喜太郎は旅館を見て歩き周りながら旅館探しは上の空で、2回体験した鶴翔 のことを考えていた。1回目は飛び込みながらも敢えて飲みはしなかったが、2回目は大きく一口飲み 込んだ。確かに酒の味がした。助けられて川原に上がった時にはうわずって意識していなかったが、 後から思い出せば、一口飲み込んだ割には酔いの感覚がなかった。自分は酒に弱い方ではないが、一口 も飲めば大抵は軽い酔いを感じるものだった。川面に現れた鶴翔が一瞬で消えるとともに、飲み込まれ た分の効果も消えるのか、それにしては随分と長い幻影を見ていたような気がする、なぜ蓮佳の幻影を 見たのだろう。  聞き覚えのある女の声が耳に入った。上の空で八幡温泉街を歩き回っていた喜太郎が気付いて 視線を声の方向に向けると、丸岡だった。びわぁと響く男の声に呼ばれるように、小脇に木箱を抱え たまま温泉旅館の玄関の暖簾をくぐった丸岡は、間もなくさらに多くの木箱を両脇に抱えて出て きた。丸岡と視線を合わせた喜太郎は、改めて助けてもらった礼を言った。安い宿を探している ことを聞いた丸岡は、今出てきた暖簾の下をくぐって玄関に入り、またすぐに出てきた。この旅館 に手頃な部屋が空いているからここに泊まれと言い残して、お使いがあるからと箱を抱えて小走り に出かけて行った。続いて玄関から出てきた男は喜太郎を見上げ、びわの知り合いか、今夜は泊るの かと尋ねた。びわとは何かと問い返した喜太郎に、この丸屋旅館の娘で、自分の娘だとその男は笑い ながら答えた。喜太郎はとりあえずここに宿を取ることにした。  丸岡枇杷子(びわこ)、それがこの旅館の主の娘の名前、喜太郎は部屋に案内してくれた 中居から聞いた。関係を気にしている中居には、朝早くに川沿いの道で枇杷子と偶然出会って、 宿を探していると言ったらここを紹介されたと説明した。その中居に旭川の酒のことを尋ねると、 昔聞いたことはあるが良く知らない、と言って部屋から出て行きそうになった。喜太郎は呼び 止めて、旭川の酒のことを知っていそうな人に心当たりがないかと踏み込むと、この辺りのこと […]

23. 酒と鬼を探す男1

 1910年の4月、武良喜太郎(ぶら きたろう)は紫の酒、鶴翔(つるはね)が湧くと言われる 旭川(あさひがわ)にやってきた。  ポイントは建部村八幡(たけべむらやわた)温泉付近の旭川河畔である。国鉄津山線に乗って 岡山県御津郡建部村福渡駅(みつぐん たけべむら ふくわたりえき)で降り、そこから歩いて 20分ほどの距離だ。喜太郎は駅からの道すがら、周辺に住む人々に話を聞いて鶴翔のことを確か めようとしたが、鶴翔や酒鬼のことになると急に口が重くなった。   喜太郎は鶴翔のことを、京都の薬面寺住職から聞いた。薬面寺に伝わる代々住職の手記に、 100年以上前の幻の酒のことが書かれているとの話であった。その酒は岡山藩が皇室に献上して いた酒であり、昔の住職が薬師院大僧正の共をして帝(みかど、天皇陛下)に拝謁した折に相伴に あずかったことがあった。美しい紫色の酒であったようで、それから数年してその献上酒は途絶え たが、それを造っていた杜氏(とうじ)が酒鬼となって造り続けたという言い伝えがあったそうだ。 その話を聞いた喜太郎は、その代々住職の手記を読ませて欲しいと当時の住職に頼んだが、これは 僧坊以外の人には見せられないと断られた。そこで喜太郎はその住職に頼み込み、鶴翔にかかわる 部分を読んで聞かせてもらった。その内容から、旭川湖に沈んでしまった岡山藩旧鶴田村にいた杜氏、 佐知助がその酒鬼になって鶴翔を造っていたと喜太郎は確信して、旭川にやってきたのである。  喜太郎は化幻玄師(けげげんし)である。これは妖怪、怪現象、特殊能力など、一般の常識となっ ておらず一部に信じられていたり言い伝えとなっている不可思議な事柄を調査し、その現象や力を人 の世の役に立てる任務を負った一族である。  化幻玄師の源流は500年代の後半にいた馬斑柿比良(うまむらのかきひら)である。累代に渡っ て朝廷の大臣(おおおみ)を務めた蘇我氏に仕え、物部氏をはじめとした政敵と戦うための諜報 活動や工作を取り仕切ったのが馬斑氏であり、その中でも柿比良はずば抜けた能力を発揮して物部氏 を滅亡に追い込んだ立役者であった。柿比良が得意としたのは諜報と戦闘の指揮であり、自らの 肉弾戦には弱かった。物部氏を滅ぼしたその高い能力を厩戸皇子(うまやどおうじ、聖徳太子の生前 の名前)に認められて、柿比良は皇子から直接の任務を命じられた。それは仏教の調査であった。  500年代前半の日本に伝えられた仏教は、数十年を経てもまだ日本に定着してはいなかった。 当時の自然災害や伝染病や事故は、怨霊の祟りによってもたらされると信じられていた。仏教におけ る仏や仏具はそうした怨霊を沈める力を持つ一種の科学技術とされ、その力を活用しようとする勢力 が朝廷に仏教を取り入れようとした。蘇我氏は仏教を使う立場をとり、仏教を怪しい力として排斥しよ うとする物部氏と激しく対立した。この時は仏教が政争に利用されたのであるが、厩戸皇子は政争の 道具としてではなく、純粋に怨霊封じの科学としての仏教を見極めようとした。その調査命令が柿比良 に下されたのである。  柿比良は様々な経典や仏像を調べ、仏教が怨霊の鎮魂に極めて有力であると結論を出した。それに よって厩戸皇子は17条の憲法の第二条に「篤く三法を敬え」(仏教を手厚く信仰するように)と定 めるに至った。それ以来、馬斑氏は諜報活動の担い手としてではなく、不可思議な現象や力、つまり それこそが当時の最新科学技術であって、それを調査して世のために活用する役割を生業とし、以後 代々に渡って受け継がれてきた。その子孫は不可思議な事柄を感じ取る独特の能力を持つに至り、いつ のころからか自らを化幻玄師と称した。中央の政権に仕えたり、地方の領主の保護を受けたり、商人 の支援を受けるなどその立場は多様となり、時代を経て分派もした。政争に与した諜報活動や破壊工作 を生業とする忍びとは一線を画していたが、忍びや官憲に追われることもあった。その末裔の一人が、 武良喜太郎である。  旭川を渡ってくる風の匂いを気にしながら喜太郎が土手を歩いて八幡温泉近くに着いたのは、夕暮 れ近くであった。満開の桜が夕日に映えて、川面は夕焼けで橙色に染まっていた。夕陽を背にして感覚 を研ぎ澄ましてみたが、妖怪の気配も酒の匂いも、喜太郎には感じられなかった。  日の出前に出なおした喜太郎は、水際にたたずみ川面に感覚を集中していた。空が白んで山際が薄く 橙色に染まってきたその時、喜太郎は全身に微かな妖気を感じた。薄明るい川面が紫色に変わった。 喜太郎は川面と周囲に交互に注意を向けたが、妖気の主は水の中に感じられた。その妖気が攻撃的な ものでないと断定した喜太郎は、その紫の川に飛び込んだ。紫の川の水は、その味も匂いも確かに酒 であった。と思った次の瞬間、単なる水になり、色も消えた。まだ暗い水中に潜り、動きを止めて様子 を窺ったが、妖気は感じられなかった。しばらく川を泳ぎ周り、川原から上がるころには周囲はすっか り明るくなっていた。  通りすがりの人が、川から上がってきた喜太郎に不思議そうな視線を向けて、何をしているのか川に 落ちたのか、と声を掛けた。喜太郎は着物と袴のままで川に飛び込んだのであった。野菜の入った籠を 小脇に抱えたその若い女は、喜太郎と一定の距離を保ったまま、大丈夫かと重ねて尋ねた。酒を飲んで みようと思って飛び込んだと喜太郎が答えると、その女は顔をそらして歩き始めた。酔っ払いか頭の おかしい者と思ったのである。喜太郎は敢えて近寄らないまま、自分は怪しい者ではなく、この辺りの […]

22. 見えないものを触らせる紙

 高知藩球磨由良村(くまゆらむら)で紙漉きを営む長我部平衛門(おさかべ へいえもん)だけが 作れる格別の紙、他に類を見ない薄さ、ほんのりと光を放つ高貴な色合い、しなやかさ、そして丈夫 さをもつ紙の中の紙、朝霧。この朝霧に勝るとも劣らない紙を平衛門の息子、篤逸(とくいち) が初めて作った。長我部家に仕える職人たちは、篤逸が作った紙を見て驚き、そして褒め称えた。  5日前、宙を飛び目には見えない白い鯉のような物体に朝霧を通して触れてからは、篤逸の右手 の感覚が変わった。触れる物の気持ちがわかるようになった。自分の作った紙を右手で触ると、紙が きしむような声を上げているのがわかった。  篤逸は、改めて自分の和紙作りを考え直した。和紙の原料である楮(こうぞ)を湯で煮て樫の棒で 叩き、また煮ては叩くことを繰り返して繊維を細かく砕いていった。これは通常の作業だが、砕いた 繊維を右手で触ると、まだ砕きが不十分で目が粗くてムラがあるという楮の気持ちがわかった。篤逸 は棒で叩いた後に指先で入念に磨り潰す作業を繰り返し、楮の気持ちを確かめながら、楮がもういい というまで丸1日掛けて入念に漉きの前の楮液を作った。そして楮液を漉き板に乗せて紙漉きをする ときも、一度に乗せる量が多くて余計なダマができているという漉き板の声を聴きながら、何度も やり直した。ついに納得のいく生紙(なまがみ)を作りあげ、陰干しすること3日、仕上がった紙は 平衛門の朝霧に勝るとも劣らない、気品に満ちた紙であった。干場の紙を見た職人は、これが篤逸の 作であることを最初は信じなかったほどの出来栄えであった。程なく現れた平衛門も、篤逸の紙を 見て大いに満足そうに笑った。  ついに篤逸が朝霧を作った、作業場のこの興奮が冷めた後、篤逸は自身が作った紙、父に朝霧と 銘打つことを許された和紙を持って作業場の裏に出た。人目がないことを確かめて、自作の朝霧を 透かして空を見た。しばらくすると、白い鯉が現れた。篤逸が自身の作った紙を透して白い鯉が 見えたのは初めてであった。空を泳ぎ回る白い鯉に向けて紙越しに篤逸は、自分の腕で朝霧を作る ことができた、父の朝霧に引けを取らないと父に褒めてもらえた、と語った。白い鯉は篤逸の間近に 迫ることなく、空へと消えた。  平衛門作の朝霧は、そのほとんどが高知藩籍写献納所(せきしゃけんのうしょ)に納められてい た。籍写献納所とは、藩の政治や財政の面で作られる書類、重要な書物、代々藩主や重鎮が残した書 画などを管理貯蔵している部署であり、藩の執務や行事において書画に用いられる紙の購入や出納 管理もまた同所の役目であった。籍写献納所が購入するのは長我部家の和紙だけではなく、藩内数か所 の紙漉き係が作る和紙が藩では公式に用いられていた。その中でも朝霧は平衛門にしか作れず数に限り があること、そしてその価値がわからないものに使わせるのは惜しいという考えから、朝霧を使えるの は藩主、筆頭家老、勘定奉行、そして書の藩指南役である籍写献納所頭取だけだった。  篤逸が朝霧に匹敵する和紙を作り始めてしばらく経ち、それが偶然ではなく安定していることを確 信した平衛門は、自分の作る従来の朝霧と共に篤逸の作る紙も朝霧として納品することに許しを求める ために、籍写献納所頭取、三角左馬介(みすみ さまのすけ)に篤逸を引き合わせる都合をつけた。高 知藩始まって以来の書の名手と呼ばれており、藩の指南役でもあり、祐筆の指導役でもある左馬介の目 にかなわなければ、篤逸の和紙を朝霧と呼ぶことはできないからだ。  左馬介は籍写献納所で長我部親子と対面し、差し出された篤逸作の紙を見ながら用件を聞いた。 左馬介はしばらくの間無言でその紙を手に取って感触を確かめながら見つめ、畳の上に戻し、部屋の外 に声を掛けて部下を呼んだ。ほどなく、書道具一式が持ち込まれた。左馬介は無言のまま墨を磨り、 大筆に墨を付けて篤逸作の和紙に一書皆心と書いた。書をそのままにして、左馬介は平衛門と色々な 世間話を交わし、時々篤逸に話題を向けたかと思うと、乾いた書を取り上げて縦に構えて見つめた。 しばらくの間、篤逸の作る紙を夕霧と名付け、朝霧とは区別して納品しろ、それが左馬介の下した結論 であった。朝霧とは認められないのか、朝霧には及ばないのか、そう尋ねようと身を乗り出した篤逸を 平衛門は制し、丁重に了解の意を口上した。  籍写献納所から長我部家に対する夕霧の注文は少なかった。自身の紙が朝霧に匹敵すると父に認め てもらった日までは、朝霧を目指した極薄手の紙以外に、長我部家の職人の一人として厚手のものや色 を入れた装飾紙なども作っていたが、三角左馬介に夕霧の銘を与えられてからの篤逸はひたすら夕霧 だけを作り続けた。なぜ朝霧と呼ばせてもらえないのか、どこが父の紙よりも劣るのか、その答えを求 めて夕霧作りに没頭した。その間、白い鯉を探して夕霧を空にかざすことがほとんどなくなっていた。  篤逸は夕暮れのもやの中を歩いていると女に出会った。服装と髪からその女は武家の娘のようで、 草むらに正座し文机に向かって小筆で一心に書き物をしていた。邪魔をしては悪いと思いながらも篤逸 は何となく興味を覚え、背後から静かに近づいた。その女は1枚書き上げたようで、筆を置いて何かを 探して文机の周りを見回していたが、見つからない様子であった。女は振り向いたが篤逸とは目を合わ せず、肩越しに篤逸の後方に視線を向けた。すると篤逸の背後から白い鯉が現れた。篤逸が朝霧や夕霧 を透かして空を見た時に見えるあの白い鯉だ。はやり目鼻もひれもなく、細長くてずん胴であるが、人 の背丈ほどの長さがあった。その女の周りを何周も飛び回った白い鯉は、まるで飼い主になついた犬の […]

21. 見えないものを見せる紙

 そこに存在しても人の目には見えないものは数多くある。  その一つ、空中を飛び回る細長い物体がある。それは無色透明で、通常は人の目には見えないが、 夜には発光して火の玉のようになることもある。この火の玉を偶然見た人が、これを霊魂と考えて 人魂(ひとだま)と呼んだ。  宙を飛ぶこの透明な物体を見ることができる者、いや見せることができる者がいた。長我部 平衛門(おさかべ へいえもん)といった。高知藩球磨由良村(くまゆらそん)の紙漉き(かみ すき)職人である。長我部家は高知藩で代々紙漉きを営み、武家ではない血筋でありながら藩主 から特別に名字と帯刀を許されていた。  長宗我部家の職人が作る紙の中でも、平衛門が作るものは際立って薄く優美であり、しなやか で丈夫であった。平衛門にしか作れないその紙は、他の紙と区別されて朝霧(あさぎり)と呼ば れた。平衛門の息子、篤逸(とくいち)も優れた紙漉き職人であったが、朝霧は作れなかった。篤逸 が作る紙と朝霧との違いを見定められる者は、長我部家の職人以外には藩内に数えるほどしかいな かったが、篤逸にとって自身の紙と朝霧との差は、まだ超えることができない大きな壁であった。  篤逸は毎日のように朝霧を両手に取って広げ、その極意を見極めようと様々に陽の光や蝋燭の 光を当てて観察していた。平衛門は自身の紙漉き技を隠すことなく職人にも篤逸にも見せていたが、 その極意を話して聞かせることはなく、あくまでもやって見せる日々であった。篤逸には父譲りの 才能があり、父の技を見て学び瞬く間に紙漉きの技術を習得して他の職人を凌ぎ、素人目には朝霧と 区別がつかないほどの紙を作れるようになった。しかしまだ隔たりがあることは、職人たちにとって 明らかであった。  ある日篤逸は、いつものように2尺四方(およそ60cm×60cm)の朝霧を両手で広げ空に透か して眺めていた。朝霧は薄いために、その向こうの景色がうっすらと見てとれる。すると、何か動く 物が見えた。鳥の飛ぶ影かと思った篤逸は朝霧を外して空を見たが、それらしき鳥は見当たらなかっ た。空に向かって朝霧をかざせば何かが前を通り過ぎ、朝霧を外せば景色以外に変わった物は何も見え ない、それを何度も繰り返した。そのうちに、朝霧を通して空を眺め、焦点を朝霧ではなくそのずっと 遠くの景色に置くと、次第に前を通り過ぎる物がはっきりと見えてきた。それは、細長く、まるで池の 中を元気に泳ぐ白い鯉のようであった。空中を泳ぐその鯉のようなものは、空のどこにいるのか、その 距離感は篤逸にはわからなかった。すぐそこのようでもあり、はるか高い空の上のようでもあった。 しばらくするとそれは遠ざかり、見えなくなった。  篤逸はその白い鯉のようなものが気になったが、本当にそんなものが見えたのか半信半疑であっ たために、そのことを誰にも話さなかった。それからというもの、篤逸は紙漉きの合間に朝霧を持って 外に出て、空にかざした。これまではひたすら朝霧の極意を見極めるために空にかざした朝霧を観察し ていたが、いつしか空の白い鯉を探すことの方が多くなった。自分の作った紙を透かしてその白い鯉 が見えたことはなく、朝霧を透かしたときにだけその白い鯉を見ることができた。晴れた日も雨の日 も、日中でも夜間でも、見えるときには見えた。何度も白い鯉を見た篤逸は、徐々に自分の見間違いで はないことの自信を得たが、やはり他人にそのことを話す気にならなかった。平衛門作の朝霧を透かし て空を見上げるなど自分しかしていないことだから、白い鯉が何者かはっきりするまでは自分だけの 胸にしまっておこう、篤逸はそう考えた。  もはや日課のように空の白い鯉を観察していたある日の朝、その白い鯉は篤逸の方に向かって一直 線に近づき、紙越しに眼前まで迫って止まった。まさしく紙一重で白い鯉と篤逸は接していたが、 篤逸が朝霧を外して見るとそこには何もなく、朝霧越しに見ながら向こうに手を回してもそこには何も なかった。朝霧を挟んで眼前にいる白い鯉は、長さが6尺(約180cm)程度、幅が2尺ほどの大きさ に感じられた。それまで篤逸には白い鯉のように見えていたが、間近で見れば頭もヒレもないずん胴、 長く伸ばした巨大なもちの如くであった。お前は何者かと篤逸は声を出して尋ねたが、反応はなかっ た。ほどなく白い鯉は空中に飛び去った。  ある夜、篤逸がいつものように朝霧を透かして見ていると、再び白い鯉が眼前に迫った。そのとき に篤逸は初めて朝霧越しに手で白い鯉に触れようとした。すると、差し出した右手は朝霧をすり抜け、 朝霧の向こうに見える白い鯉に届いた。それは、篤逸にとって初めて感じる感覚だった。魚やもちの ようなはっきりとした物の存在感があるのではなく、ぼやっとした感触だが確かにそこにあることは 確かだった。だが、白い鯉を掴むことはできなかった。白い鯉の感触を感じながら体を捻って朝霧の 向こう側を見たが、紙の裏側が見えるだけで、肘まで入った右腕も白い鯉もやはり見えなかった。怖く なった篤逸は右腕を引き、白い鯉は空に消えた。その時から、篤逸の右手の感覚が変わった。何かに 触れた時、その物のことが、その物の気持ちのようなことがわかる気がしたのである。障子に手を掛け れば、障子紙の穴を塞いで欲しがっている障子の気持ちがうかがえた。切り出し小刀を持てば、以前 子供に使われたときに子供の指に怪我を負わせたことを悲しんでいる小刀の思いがわかった。  翌日取り掛かった紙作りで、篤逸は朝霧に引けを取らない紙を作り上げた。職人たちは驚き、 […]

20. 嫉妬する耳栓

 松本藩普請奉行所、普請勘定方助役の吉家惟宗(きっか ただむね)は、横浜藩に出向し、横浜村 沿岸の防波堤工事の監督と警備を助成していた。  毎日昼食休みと就寝前の2回、松本藩国家老の次女、時本実乃(ときもと みの)との会話を楽し みにしていた。旅の浪人から預かった玉をお互いの両耳に入れて目を閉じると、松本と横浜に離れて いても、2人はまるで傍らにいるかのように会話ができたのである。  横浜藩での勤めに慣れてくると他藩との交友も頻繁になり、惟宗は実乃との秘密の会話に応じられ ないことが起こり始めた。勤めが忙しいとわかってはいるが、実乃は不満と不安を募らせる日が続いた。  惟宗が沿岸警備を行っていたある日、共の女中を連れた若い女に出くわした。その女が持っていた 袱紗が風で飛ばされて数メートル下の海際の岸壁の岩に引っかかり、取り戻せなくて困っていたのであ る。惟宗は事情を聴いてそれが大切な書簡であることを知ると、その岩場につたい降りてその書簡を 取ってきてやった。その若い女は非常に感謝し、頭巾を取って名乗った。織蔵七瀬(おりくら なな せ)といった。そわそわする仲間を不思議に思いながら、惟宗は多くを語らず会釈をして、仲間と共に 警備の巡回に戻った。自分には許嫁(いいなずけ)の実乃がいるという思いが、惟宗に見知らぬ若い女 との会話を控えさせた。その若い女が横浜藩勘定奉行、織蔵陣右衛門(おりくら じんえもん)の長 女であることを、横浜藩の仲間が語った。藩内でも評判の美形であり、才女としても名高く、加門院流 槍術の師範代ということであった。美形の七瀬を前にして仲間がそわそわしていたのだと、惟宗は 合点がいった。その夜、惟宗は耳に玉を入れて実乃と会話をしたが、七瀬のことには触れなかった。  数日後、横浜藩の道場に加門院流の一行、22名が現れた。全員が女であった。これは月に一度 行われる、藩御家流剣術の長束一刀流(なつかいっとうりゅう)と、藩公認女流槍術である加門院流と の合同稽古であった。長束一刀流側は布を幾重にも巻き付けた木刀、加門院流側は穂先に布玉を付けた 稽古用の槍を使って、練習試合を行うというものであった。元来、槍と刀とでは、槍の方が優位だ。 槍は、刀の長さよりも遠い位置から最小限の動きで相手の急所を突くことができるからである。それで も、槍の間合いよりも接近戦になれば、刀の方に分がある。槍術使いの重点は、刀の間合いまで近寄ら ないで勝負をつけることにある。このことから、この合同稽古では真剣な試合というよりも、加門院流 が刀を相手に戦う練習をする、そのための稽古台として長束一刀流道場の若手が相手をする、そういう 申し合わせになっていた。無論、長束一刀流は男ばかりなので、女流の相手をするのは楽しいし、本気 を出せばいくら槍が相手でも女に負けるはずがないという気持ちの余裕があった。ただし、加門院流の 師範代だけは別格に強く、長束一刀流の若手が本気を出しても叶わない程であった。  その合同稽古は、惟宗が横浜藩に出向してから、初めて行われるものであった。松本藩御家流の白穿 列流免許皆伝者である惟宗も長束一刀流道場に出入りし、普段から稽古を行っていた。この合同稽古で は、練習試合が次々と行われ、最後に加門院流師範代が出てきた。相手が手強い師範代とあって尻込み している若手男どもを見た長束一刀流の師範から、惟宗を推す声が上がった。惟宗は仕方なく、練習用 木刀を借りて道場中央に出た。視線を据えた先には、見覚えのある顔があった。織蔵七瀬である。  七瀬は無表情のまま一礼し、3歩下がって槍を構えた。惟宗は抜刀の型を経て、木刀を正眼に構え た。次の瞬間、気合と共に七瀬の突撃が繰り出された。惟宗のみぞおちに入る、そう見えた一瞬、惟宗 は横に動いて紙一重でこれを避けた。七瀬は次々に突撃と斬撃を織り交ぜて繰り出したが、惟宗は木刀 を合わせず、体の動きのみでこれらを交わし続けた。七瀬が連続攻撃を止めた一瞬の隙をついて、惟宗 は槍の間合いの内側に入り、木刀を七瀬の右首脇に乗せた。七瀬は槍を引いて下がり、降参の一礼を した。  その翌日、藩剣術指南役である長束一刀流棟梁から惟宗に相談があった。惟宗は松本藩士であるため に、横浜藩指南役からは指図ではなく相談となっているが、実際には命令である。それは、加門院流 女流槍術の非常任師範として、頻繁に稽古をつけてやれという内容であった。聞けば、先日の合同稽古 において加門院流師範代である七瀬が惟宗の腕に感服したことから、七瀬から父の勘定奉行を経由して 長束一刀流棟梁にその依頼が来たとのことであった。出向者の立場ゆえに断ることができず、惟宗は 3日に一度、加門院流道場を訪れて指導にあたることになった。これによって惟宗はそれまで以上に 自分の時間が思うように使えなくなり、実乃との秘密の会話をすっぽかすことが増えて行った。  惟宗は自分が忙しくなった事の次第を手紙に書き連ね、実乃宛に送って秘密の会話の待ち合わせを 減らすように伝えた。実乃はこれに応じるしかなかったが、不安と不満はますます募っていった。その ために、やっと叶った惟宗との秘密の会話で、実乃の気持ちが弾けた。この玉を使った会話では自分た ちの身分や名前や所在が分かるような話をしてはいけない、この玉は狙われている、第3の声にそう 忠告されて以来、2人は暗号のような言い回しを使って会話をしていた。しかし、もはや抑えが利か なくなった実乃は、自分達の名前や勤めや藩の事情などを言葉にし、思いのたけを言い募った。惟宗 は落ち着くよう実乃を諭し、忙しくても実乃を思う気持ちに変わりはないことを告げて、秘密の会話 を終えた。  屋敷に戻り、寝床に着いた実乃は、玉を両耳に入れて眠った。もしかすると惟宗の声が聞こえる、 […]

19.  愛しあう耳栓

 実乃(みの)は地からせり出した楠の根に腰を掛けて、岩に座った惟宗(ただむね)と話していた。 二人とも目をつむり、このひと時の会話を楽しんでいた。  実乃は松本藩(令和時代では長野県松本市)上田城下、円印寺(えいんじ)のはずれの楠の大木 の下にいた。惟宗は、横浜村(令和時代には神奈川県横浜市)の海岸の岩の上にいた。二人は両耳穴に 深緑色の玉を入れていた。お互いにこの玉を耳に入れて目をつむり、気持ちを集中すると、いくら離れ ていても会話をすることができた。  実乃と惟宗は幼馴染であり、特に打ち明けるともなく自然と好き合い、結婚を約束する間柄になっ ていた。毎日昼食の時間と就寝前の2回、二人は会話をするのが楽しみだった。  実乃は松本藩国家老、時本夏臣(ときもと なつおみ)の次女であり、姉が婿を取って時本家を継ぐ までは、後継ぎ候補としての立場を守らなければならなかった。元来活発で文武両道に優れ、家事を 手伝い、松本城下でも良く町人と交友を持った。剣術では、松本藩御家流の白穿列流(はくせんれつ りゅう)を修め、免許皆伝の腕前であった。  惟宗は、松本藩普請奉行、吉家兼高(きっか かねたか)の嫡男である。安政4年(1857年)、翌年 に迫ったアメリカ太平洋艦隊の2度目の寄港に備え、海岸沿いの堤防強化工事が行われていた。惟宗 は、沿岸警備の助勢役として横浜藩に派遣されており、毎日配下を率いて沿岸の巡回や工事の見張り を行っていた。惟宗も白穿列流の免許皆伝者であった。  惟宗が横浜藩に派遣される半年ほど前に、二人が馬術の稽古と称して馬に乗ってデートに出掛け ていた折に、松本藩領内の山小屋で倒れている一人の男に出くわした。二人はその男を介抱しようと すると、その男は高熱を帯びて震えながらも、手を振り払って立ち去ろうとした。実乃が手を差し伸べ ようとしたその時、男は刀を抜いて実乃に切りかかった。実乃は紙一重で刀をかわした。男は次々と 実乃に刀で攻撃を仕掛けたが、実乃は巧みにかわしながら自分は刀に手を掛けなかった。惟宗は動か ず、これを見ていた。その男はその場に倒れて気を失った。実乃と惟宗はその男を馬で運び、松本城下 の知り合いの農家の納屋に匿って手当をした。数日後、元気を取り戻したその男は雷燕(らいえん) と名乗った。  雷燕は、もう自分の命が長くないことを実乃に語った。そして、自分に代わって2人で守って 欲しいものがあると言って、刀の柄から4つの玉を取り出して実乃に渡した。これを守り、決して 他の者の手に委ねないように念を押して、姿を消した。  この玉の由来も守る意味も雷燕は語らなかった。ただ、この玉の使い方を実乃に話した。それは、 自分の心を通じる相手と共にこの玉を身に付ければ2人はひとつになるというものであった。雷燕が いなくなった後、実乃と惟宗はこの玉を2つずつ手に持ってみたが何も変わったことは起こらなか った。  あるとき惟宗は、松本藩普請奉行所の書庫で書類を読みながら、耳障りな同僚の雑談を遮るため に、耳栓のつもりで玉を両耳に入れた。全く雑音が消え、静かに書類を読むうちに眠気に誘われて目 を閉じていると、惟宗に実乃の声が聞こえた。我に返った惟宗は書類作業を続けたが、やはり目を つむってしまったときには実乃の声が聞こえた。そのうちに、敢えて目をつむって耳を澄ますと、何度 でも実乃の声が聞こえることを知った。そのとき実乃は時本家の台所で、姉と共に食事の準備をして いた。数か月前に浦賀沖に現れて大騒ぎになったアメリカの黒船のことなどを姉と話していた。  後日、惟宗は人づてに実乃にメモを送り、預かった玉を持ってくるように馬術デートに誘った。 馬で歩きながら、惟宗は実乃にその時のことを話した。実乃はいつもの冗談だろうと笑って受け流し、 他人から預かったものを耳に入れるなどできないと断った。しかし、姉との話題を正確に言い当てた 惟宗の言葉に説得されて、自分も玉を両耳に入れた。惟宗は馬を走らせて実乃から離れ、300m程 離れた丘の上で振り返り、実乃に目をつぶるよう大げさな身振りをした。目をつむった実乃に、惟宗の 声が確かに間近に聞こえた。それも、遠くから聞こえるというよりも、まるで耳元で話しているかの ように頭の中に響いてくるものだった。そして、実乃も惟宗に話しかけ、二人はしばらく会話をした後 に近づいて、お互いが会話したことを確かめ合った。  横浜藩への派遣が決まった時、惟宗は実乃と示し合わせた。昼食時と就寝前の一定の時刻に定め、 お互いに玉を耳に入れて待とうと決めておいた。用心深い実乃は、この不可思議な行動が他人の目に 触れないようにと、玉を耳に入れるときには自室や納屋に籠った。時折、惟宗との思い出がある円印寺 の楠の下に来た。  この日、円印寺の楠の下と横浜村の海岸にいる二人の会話に、別の声が割って入った。その声は 二人に、この玉が狙われていること、決して自分たちの身分や名前や所在が分かるような会話をしない よう告げた。

18. 名付けてかぐや姫

 糸岡英夫(いとおか ひでお)は東京帝国大学工学部で航空機用エンジンの研究を行っていた。 それは昭和16年当時一般的なプロペラ機に用いるレシプロエンジンではなかった。糸川は全く新しい タイプのエンジン、渦流炎推機(かりゅうえんすいき)を研究しており、後にそれはジェットエンジン と呼ばれる技術であった。  彼の研究棟には地下室があり、そこには彼が泊まり込む寝室と共に、特別に彼に許可を得た人 しか入れない彼個人の実験室があり、そこは糸岡壕と呼ばれていた。糸岡壕に入ったことのある学生 は語った、「糸岡壕には機械工学実験室には似つかわしくない竹竿が鉄柱に固定されて置かれてあり、 その竿は真っ赤なビロードで覆われている」、と。彼は尾道市の狩藤家で見つけた、濡れ布を干して いつまで待っても乾かない不思議な竹竿を「かぐや姫」と命名し、学術研究のためという理由で狩藤家 の了解を得て東京に運び、糸岡壕に持ち込んでいたのである。  糸岡は時々糸岡壕に籠り、出てきたときには必ず破天荒な発想や新たに習得した技術を披露した りして周囲を驚かせた。かぐや姫を持ち込む前までは、研究対象はジェットエンジンではなく、新たな ターボチャージャーを組み合わせた高出力エンジンであった。かぐや姫を持ち込んでからは、それまで の研究を突然取りやめて、渦流炎推機の研究を始めた。  周囲の研究仲間に渦流炎推機のコンセプトを最初に語った時は、多くの者がその原理を理解できな かったり実現性を信じなかったりして研究の変更に反対した。そこで糸岡は糸岡壕に8日間籠って プロトタイプを作成し、それを使った実験を仲間に見せた。実験は通常仲間と共に使う実験室において 行われた。  糸岡が作ったプロトタイプは一升瓶ほどの大きさの金属の筒が3本束ねられた形の物であった。 実験において、糸岡の作った一升瓶は爆音と共に長さ5mもの火炎を吐き出し、取り付けてあった鉄柵 を3mも動かした。「もし鉄柵に固定されていなければ、打ち上げ花火のように飛び出して行っただ ろう」と糸岡は説明した。「この小さなプロトタイプで2トンもある鉄策をこれほど動かす推進力を 発揮するのだから、これを飛行機に取り付ければプロペラ式エンジンを遥かに上回るスピードが出る はずだ」、糸岡がそう熱弁を続けているとき、一升瓶は炸裂して実験室は炎に包まれた。  鎌成は竹竿を探しに行った尾道の狩藤家から先に引き上げた後、東京に戻った糸岡から事の顛末 を聞いた。糸岡は自分が経験したことを全て鎌成に話して相談し、狩藤家の了解を得てかぐや姫を借り 受け、糸岡壕に持ち込んでいた。鎌成には、4mにも及ぶ竹竿を置いて管理できるような広い部屋が なかった。鎌成は東京大学文学部民俗学の助手なので、従来は工学部の実験棟に出入りすることは ほとんどなかったが、かぐや姫を持ち込んでからは、糸岡壕を訪ねることが多くなった。かぐや姫に ついては糸岡と鎌成との二人の間の秘密であり、お互いの研究仲間にも一切伝えない約束であった。  かぐや姫を糸岡壕に持ち込んで鉄柱に渡して水平に固定した後、鎌成は糸岡の言うとおりに かぐや姫にぶら下がってみた。その瞬間、鎌成に見えていた糸岡壕の実験室の風景が一変し、眼前 には筵(むしろ)に座って稲藁を縒り合せて縄を作る人が現れ、鍬を振りながら土塁を築く工事をし ている作業を空から見て、地引網を引いている漁師の姿を網に捉えられた魚の視線から見た、と思った ところで糸岡の顔が現れて我に返った。糸岡が鎌成を竿から引き降ろしたのである。ぶら下がって床か ら足を離した瞬間から自分では元に戻れなくなるので、糸岡がぶら下がる時はいつもタイマーを掛けて 一定時間でかぐや姫の一端が床面まで下がるようにしている。民俗学を専攻し、普段から昔の人々の 生活を研究している鎌成には、かぐや姫にぶら下がることによって昔の人々の生活場面が見えたので あった。  この体験以来、糸岡と鎌成は時々かぐや姫にぶら下がっては新たな着想やきっかけを得て、自身の 研究や学習を進展させるようになっていた。  ある時鎌成は、加賀藩前田家の蔵書を研究者向けに公開した尊経閣文庫の中で物類品隲注考 (ぶつるいひんしつちゅうこう)という明治時代の文献を発見した。これは、不思議な竹竿を探す根拠 となった蒲生源内(がもう げんない)の博物学書、物類品隲(ぶつるいひんしつ)の解説論文であ る。この中で、濡れ布を干しても乾かない竹竿についての調査結果があり、この竹竿を用いた企ては 必ず失敗する、と書かれてあった。  このことを糸岡に知らせようと工学部を訪れた鎌成は、糸岡の研究棟で火災が起こっている ことを知った。研究棟の外に避難して消火活動を見守る人々は、糸岡が周囲の制止を振り切って 地下の糸岡壕に入ったまま出てこないらしいと語っていた。  群衆に紛れる一人の女性が、炎に包まれる研究棟の傍らで立ち尽くす鎌成の視界に入った。 その女性は、鎌成がかぐや姫にぶら下がって体験した多くの場面の一つに現れた人物であった。 名は鬼灯(ほおずき)、鎌成はそう記憶していた。

17. 洗濯物が乾かない物干し竿

 「晴れた日の屋外に洗濯物を干し、いくら待っても乾かない竿竹をご存じあれば一報されたし。 薄謝を呈する。」  朝陽新聞朝刊12面文学欄の隅の尋ね人広告に交じってこの広告が載せられたのは、昭和15年 (1940年)6月6日だった。出稿人は東京帝国大学工学部の助手、糸岡英夫(いとおか ひでお)と いう28才の男であった。糸岡による同主旨広告の掲載はこれが3度目であった。それまで2度の 広告によって11件の連絡があったが、費用を惜しんで短い文章であったために、いずれも詳しく 聞けば雨の日であったり、時間が短かったりして、乾かなくて当たり前の話ばかりであった。そこで、 晴れた日の屋外と、いくら待っても、という詳しい記述を加えての、3度目の掲載である。  糸岡は、同大学国文学科の助手をしている友人、鎌成銑吉(かまなり せんきち)から聞いた ある竹竿を探していた。宝暦13年(1763年)に蒲生源内(がもう げんない)によって刊行 された博物集、物類品隲(ぶつるいひんしつ)に収載されている竹竿である。蒲生によれば、「その 竹竿は一見普通の竿であり、横にして濡れ布を干すのに適している。しかしそこにぶら下げられた物 はそこにあって実はそこになく、故に濡れ布は乾かない。この竹は100反の竹林にして100年に 1本の珍品である。」と記述されている。鎌成は、稀代の博物学者・蒲生源内について研究している うちにこの記述に興味を抱き、糸岡に告げたのである。  蒲生源内は複雑な性格を持った江戸時代屈指の天才企画師として知られていると同時に、科学者 としても高い見識を有しているというのが近代の一般的な評価であると鎌成は語る。故にこの不可解 な竹竿の記述は事実に基づくはずだと思いながらも、その意味するところを掴めずにいた。そこで 工学者である糸岡に相談した。糸岡はプロペラ航空機用エンジンの研究を独自に進めながら、色々な ことに興味を持っては掘り下げる性格であったために、鎌成の話にも興味を示した。しかし糸岡にも、 その竹竿に関する記述には合点がいかなかった。そこで糸岡は、この竹竿を探すことにしたのである。  3回目の広告掲載から16日後、新聞社を経由して糸岡に12通目の手紙が届いた。その手紙に 依れば、いつまで干しておいても洗濯物が乾かないという竹竿のことを聞いたことがある、その竿は 納屋にあるかもしれない、という内容であった。ついに糸岡と鎌成はその手紙の主に会いに行くこと にした。広島県尾道市である。  手紙を受け取って二カ月後の土曜日、糸岡と鎌成は日本国有鉄道山陽線尾道駅に着き、そこから徒歩 で住所を頼りに手紙の主の家に着いた。東京から竹竿を見るために来た二人に驚きながら、手紙の主、 狩藤桐子(かりどう きりこ)はその竹竿について語った。ここに来る前に電話と手紙で交わした 会話によって、その竹竿が確かに存在するとは限らないこと、その竿の話は狩藤が祖母から聞いたもの であること、その竿は納屋にたくさん積み上げられている竹竿の中にあるかもしれないこと、本数は はっきりしないこと、を二人は承知していた。  糸岡と鎌成は示された竹竿を納屋から運び出し、狩藤の家の壁に立てかけて並べて行った。 98本あった。糸岡はカバンからさらし布を取り出して短冊状に引き裂き、水に濡らして一つ一つの 竹竿に掛けた。8月下旬の炎天下、セミの声が芳しい中、ぶら下げられたさらし布は程なく乾いて白く 輝いた。それらの中で一本だけ、ぶら下げた時と変わらず濡れたままのさらし布があった。壁に立て かけた98本の竹竿の一端には全て手のひら大の張り紙がしてあり、日付と番号が墨書きされていた。 濡れさらし布が乾かなかった竿の貼り紙には、明治三五年三月十日不可使用、と書かれていた。納屋 に積み上げられてある竹竿は、1-2年の乾燥を経て細工物用に売られていたそうだが、最近はそう いう商売をやめてしまって古い竹竿が積みっぱなしになっているのだと狩藤は言った。  糸岡と鎌成は何度も濡れ布を取り換えて試したが、この竿にぶら下げた物だけが全く乾かない ままであった。二人は目を皿のようにしてその竹竿とさらし布を観察したが、なぜ乾かないのか、 全くわからなかった。  蒲生源内との関りや資料に期待できないと知った鎌成が東京に帰るのを見送り、糸岡はこの町 に逗留して狩藤家に通った。糸岡はこの竿を竿掛けに渡して真横にし、さらし布だけでなく色のついた 衣服、野菜、油紙、徳利、鎌、魚、など、様々なものをぶら下げては観察を続けた。いずれも、ぶら 下げた時のまま何の変化も示さなかった。生の野菜や魚は干物にもならず腐りもせず、そのまま であった。なぜ何の変化もしないのか、原因となりそうな現象を見てとれず、ぶら下げられた物に何 が起こっているのか皆目見当がつかなかった。4日目になり、糸岡は両手で竿を握って恐る恐る自分 がぶら下がってみた。何も変わったことはないと思いながら地面から両足を離した瞬間、糸岡の眼前 の景色が一変した。  糸岡は空から地上を見渡していたかと思うと、海面すれすれを飛び、島を飛び越えて山頂の河口 に入って熔岩の上を歩いた、そういう景色が次々と糸岡の目に飛び込んできた。次には釜戸の炎の中 に入り、燃えて弾ける木切れの間を通り抜けて、煙突から屋根へと飛び出した。  はたと我に返った糸岡は、狩藤の顔が見えたと思った瞬間、往復ビンタを食った。狩藤は、竹竿に ぶら下がって微動だにせず目を見開いて瞬きもしない糸岡を見て不審に思い、糸岡を竿から引き降ろし […]

16. 炎に飛び込む男

 エクタは43人の異国兵士を海に沈めた。秘伝の炭、アオキを口に含み頭全体から青い光を発し ながら海中を魚のように泳ぐエクタは、銛で船底を打ち抜いて船を4艘とも転覆させ、海中に投げ 出された兵士どもの足を掴んでは次々と海底に引き込んでいったのである。一人も見逃してはなら ない、後への禍根を残してはいけない、と全員の息の根を止めることを決心していた。無表情な エクタは炎の前で宮司・悠甲にそう語った。  エクタが命じた炭衆による異国兵士の捕獲では、地上で使ったがために11片のアオキが死んで しまった。エクタはそうなることを承知の上で炭衆にアオキの使用を命じた。さもなければ、猛り 狂った異国兵士とまともに戦って、炭衆にも村人にも死傷者が避けられないと考えたからである。  アオキを口に含んだ炭衆の発する青い光によって、相手は戦う意思を奪われ従順になるのであっ た。通常はこの力を漁で獲物にのみ用いるのが炭衆の絶対的な掟であるが、長の判断によってそれを他 の目的に用いることができた。異国兵士の狼藉を阻止するために、エクタはアオキを使う判断を炭衆に 下したのである。  エクタは失われたアオキを作るために、炭焼き小屋に入った。 小柄痩身なエクタに威圧感はなく、明るく気さくで、炭衆はもとより村の人々からも頼られる存在で あった。ただし、炭焼きに山に入る時と海に潜る時は別人のごとく厳しい表情を見せた。  炭衆の中で炭焼きを行うのはエクタとその先代の長などの数人であった。炭焼きは和伯山(わほうさ ん)の炭焼き小屋で行われ、通常炭焼きに取り掛かれば20日は山を降りることはなかった。アオキは 必要最低限を作ることになっていた。異国兵士との戦いまで十分な数のアオキがあったので、何年もの 間、エクタはアオキ作りをしなかった。アオキ作りとなれば、何日かかるか予測がつかなかった。 アオキ作りはエクタとその先代だけで行われ、その間、他の者は小屋にいることが許されなかった。 失われたアオキを作る目的で、その時はエクタと先代の二人だけが山に入っていた。  村が異国兵士に荒らされていた時、悠甲と円民は和伯山の一角にある不動滝で水ごりの修行を していた。二人が下山する途中に、山を上がるエクタと先代を見掛けた。エクタのいつにない無表情に 疑問を持った悠甲は、何かあったかと尋ねた。エクタは口を開かなかったが、村で起きた異国兵士に よる事件を先代が短く伝えた。そこでは、炭衆の活躍は語らず、その兵士どもをみんなで追い払って 事なきを得たと伝えた。慌てて下山を急いだ円民を追わず、悠甲はエクタに炭衆の力かと尋ねた。 エクタも先代も無言であった。その無言から悠甲は、炭衆の力、つまりアオキの力が使われたこと を察した。それほどの相手である以上、ただ追い払うだけで終わっていないことを悠甲は悟った。  エクタと先代は無言のまま、炭焼き小屋に向かって歩き始めた。普段は決して炭衆の詮索をしない 悠甲も、エクタの極端な無表情を心配し、後を追った。  炭焼き小屋に入り、窯に薪を運びながら、エクタも先代も悠甲の入室を拒まなかった。エクタ は窯の前に座り、火を点けた薪を見つめて、狼藉者とは言え43人の命を奪った顛末、それしかなか ったという思いを窯に向かって語った。悠甲はエクタに一言残して炭焼き小屋を出た、それがお前の 役割だ、と。  エクタはひたすら薪を燃やした。アオキを作るには薪の炎を眺めて気を研ぎ澄ます必要があっ たが、一晩を経てもエクタは気を集中できなかった。エクタは窯の前に座って炎を眺め、先代は薪を 運び続けた。11日目になり、エクタは気の集中を果たした。それが自分の役割だ、鬼にもなろう、 エクタはそう呟いて炎の窯に突入した。  エクタと先代が山に入って26日後の夕暮れ、2人は炭衆のところに戻った。先代は背負った 籠を降ろし、炭を取り出し、最後に布に包んだものをエクタに手渡した。エクタは布を開いて、光沢 のある親指ほどの大きさの炭を、4人の炭衆に一つずつ渡した。この入山では、エクタは四片のアオキ を作るのが精一杯だった。エクタの全身は真っ赤に腫れ上がっていた。失われた11片には遠かった が、これ以上は命に係わると見た先代は、エクタに下山を勧めたのであった。 エクタは新たにアオキを与えた4人の炭衆と共に漁に出た。異国兵士の去った方角には行かないよう 指示した後で、エクタは一斉に炭衆を海に放った。  エクタ自らは異国兵士を沈めた辺りに潜った。その辺りは炭衆も獲物を求めて潜ることのない 底なしの深場であり、漁をする場所ではなかった。死体が沈みきっていることを確信して浅場に 戻ろうとしたエクタの視界に、一筋の青白い光が入った。その色は、エクタが作ったアオキの物では なかった。

15. 青い炭

 鳥取県東伯郡湯梨浜町には日本海に面する美しい海岸が続く。この海岸では神代の昔から令和の現在 に至るまで漁が盛んであり、海や漁にまつわる伝説も多い。  湯梨浜町の楠郷神社(なんごうじんじゃ)に保存されている悠円才抄(ゆえんさいしょう)には、 当地に伝わる不思議な漁師の逸話が記述されている。これは、建長(1250年代)から永仁(12 90年代)に掛けてこの神社の宮司を務めた桂田悠甲(かつらだ ゆうこう)とその息子、桂田 円民(かつらだ えんみん)による日記が後年まとめられたものである。  悠円才抄にはある一族の話が載せられている。悠甲も円民もその一族のことを密かに書き記し、それ を秘匿していた。書き記したことが知られれば無事では済まない、日記にはそう書かれている。日記 が見つかり悠円才抄としてまとめられ知られるようになったのは、200年以上も後のことである。  当時の由利浜村(現湯梨浜町)には素潜りで海産物を採ることを生業としている漁師がいた。その 漁師たちの中に、際限なく長時間潜っていられる秘法を持った一族がいた。その一族は炭衆(すみ しゅう)と呼ばれていた。海で漁をする傍ら、山で炭焼きをしていたからである。四世代にわたり 十数人からなるこの炭衆は、漁において一片の炭を口に含んで海に潜っていた。その炭はアオキと呼ば れていた。海の中でその炭は青い光を発し、口に含んだ者の顔は青く輝き海中を照らした。他の漁師達 は炭衆が炭を口に含んでいること、そしてその炭が単なる木炭ではないことは知っていたが、その青く 光る炭の出所については知らなかった。それが何なのか、それを詮索してはならないこと、その炭の ことを余所者に口外してはならないことがこの村のしきたりとなっていたのである。他の漁師は浅瀬で 魚や貝や海苔を取り、炭衆は深場で多くの魚や貝などを獲り、お互いにそれらを分けあっていた。  炭衆の長にエクタという男がいた。長はアオキの製法を伝承し、一族全員を指揮してアオキを 含んで海に潜るタイミングを指示する役割を負っていた。  炭衆の漁は夜であった。深夜、エクタは数人の炭衆を率いて由利浜村の海岸に立つ。皆、銛(もり) と獲物を入れる網とアオキを手にして漁に出る。各々が自分に与えられたアオキを握りしめ、エクタ の指示を待つ。エクタが海を睨み、アオキを海にかざすとアオキは青く鈍い光を放つ。エクタの掛け声 を合図に皆アオキを口に含み、海に入っていく。しばらくして、網を魚で一杯にした炭衆が次々と水 から上がってくる。皆がそれを数回繰り返したところで、エクタの指示によって夜明け前に漁は終え られる。  エクタは慎重だった。アオキの輝きが安定しない時には決して漁を始めさせなかった。炭衆を率い て浜に立ちながら、しばらく経って漁を諦めることも珍しくなかった。  弘安四年(1281年)6月14日、浜にいたエクタと炭衆は夜陰に紛れて接近する4艘の船を 見た。船は暗闇の中で岩礁を恐れて接岸はせず、夜明けを待っている様子であった。エクタはこれらを 不審に思い、炭衆に見張りを命じた。  夜明けと共にこの四艘は浜に乗り上げ、その身を武具に包み青竜刀や鉾を持った明らかな兵士、それ も異国の兵士と見える40人余りが上陸した。その連中は異国の言葉を発しながら武器を振りかざして 方々の家に押し入り、人を傷付け食料の略奪を始めた。  エクタは炭衆に命じた、この無頼漢を排除せよと。11人の炭衆が口にアオキを含み、異国兵士 と対峙した。炭衆に引き連れられた異国兵士は次々と浜に戻った。まるで大人しく無表情で虚空を眺め ながら、つい先刻まで略奪を働いていた無頼漢とは思えない静かな素振りで、自分たちの船に乗り込ん だ。炭衆の合図とともにその四艘は出発した。  異国兵士の船が出発した直後、エクタはアオキを口に含み一人で海に入った。海の中から四艘の船 を誘導し、浜から見えない沖合でそれらの船の底を銛で打ち抜き、船を転覆させ異国兵士の全てを 沈めた。  異国兵士と戦った11人の炭衆のアオキは死んでいた。アオキは陸で用いられるとその力を失って しまうものであった。エクタはそれを承知で、炭衆にアオキの使用を命じた。  アオキ作りの方法を受け継いだエクタであっても、アオキを作るのは容易ではなく、確実にできる 保証はなかった。一度に作り得るアオキは五片。失った11片のアオキを再び持つのがいつになるか エクタにもわからなかった。残ったアオキは自分の物と先代炭衆の長の物の二片であった。  だから、追い払った異国兵士が再び攻め寄せた場合、残ったアオキで立ち向かい排除できるかどう か、エクタには確信がなかった。それ故に、エクタは異国兵士が二度と戻らないよう、息の根を止め た。村人には単に追い払ったと見せかけ、遺体が浜には流れ着かない沖合で異国兵士全員を海底に 引き込んだ。言葉にはしなかったが、炭衆はそんなエクタの行動を察していた。  海から戻ったエクタは、再び賊が上陸しないよう祈るための鳥居を岩場に建てるよう炭衆に命じた。 それが、自身が海に沈めた異国兵士を供養するための物であることを、炭衆は皆察していた。  エクタは異国兵士を葬った翌朝、先代と共に炭焼き小屋へと出掛けて行った。新たなアオキを作る ためにである。