33. 虹色の怨念1
巳句羅(みくら)は瑠璃寺の奥で床に就いていた。
瑠璃寺は常陸国(ひたちのくに)の府中にある真言宗智山派の尼寺で、夫、平国香(たいらのくにか)
と娘、丹々(にに)を亡くし僧籍に入った巳句羅が務める寺だ。
巳句羅の目はほとんど見えなかったが、目を閉じていても時折鮮明に蘇る光景があった。それは
平将門の顔であり、自分が凝視した将門の眉間を七色の矢が貫いて、血が噴き出る様だった。巳句羅
は脱力感をまとって床にいたが、目以外のどこにも怪我はなかった。鬼怒川の鯉の鱗を両目に入れ、
鱗を通した自らの視線で将門を撃ってからは気を失った。気づけばこの床にいた。瞼は開くが景色が
ぼんやりと見えるばかりで、起き上がる気力もなかった。< p>
世話をしてくれる尼僧に依れば、自分を抱えてこの寺に戻したのは鎧に身を包み馬に乗った数名
の武者(もののふ)であった。そのただならぬ様子に警戒し、門内に尼僧兵団を配したうえで脇門
から応じたところ、武者は誰も名乗らなかったが全員が馬から降り丁寧な言葉使いで、奥方様を
よろしく頼むと言い残して去って行ったとのことだ。自分のことを奥方様と呼ぶ武者とは、夫、平国香の
家臣、剣持萬蔵(けんもち まんぞう)とその一党であることが巳句羅にはわかった。平将門を討った
とはいえ、将門を新皇と仰いでいた武州の反乱勢力は平国香の一門に追手を掛けるのが明らかである
ことから、萬蔵以下国香一門の残党は早々に巳句羅を安全な尼寺に落として、方々に逃げ散ったに
違いない。< p>
平将門は死んだのか。将門はあなたに討たれる、鱗を通して見よ、将門の死が見える、鬼怒川
の銀色の鯉はかつて巳句羅にそう言った。そしてその鯉の鱗を入れた巳句羅の目は、将門が眉間
から血を吹き出す光景を見た。目を閉じれば何度でもその光景が浮かんだ。それでも巳句羅には
それが現実だったかどうかわからなくなっていた。< p>
数日経ち、巳句羅は起き上がれるようになった。目を開けば光が眩しく、ぼんやりとしか見えな
かったためにほとんど瞼を閉じたままにしていた。
瑠璃寺の住職、信尼(しんに)が、尼僧の燕尼(えんに)と共に巳句羅の部屋を訪れた。
「巳句羅、具合はどうだね」、
燕尼は廊下からそう声を掛け、ゆっくりと襖を開けた。部屋の真ん中に正座し廊下に背を向けていた
巳句羅は、その声を聴いて廊下の方に向き直った。
「お蔭様で落ち着いております」、
信尼と燕尼が巳句羅の前に座り終える辺りで口を開いた。
「目はまだ見えないのか」、
燕尼は心配そうに尋ねた。
「変わらずでございます。うっすらと明かりは感じますが、ほとんど見えません」、
顔を燕尼の方に向けて巳句羅はそう言った。
「医者もそなたの目が悪くなった理由はわからんと言った。いったい何があったのだ」、
信尼が尋ねた。
巳句羅は顔を左右に振り、心当たりがない素振りを示した。
「そなたは、夫君(おっとぎみ)の一門と共に行ったのか」、
そう尋ねる燕尼を信尼が視線で制した。
「信尼様、私のような者がこれ以上お世話になりお寺にご迷惑をおかけすることはできません。
どこか遠方の寺をご存じではないでしょうか。」、
巳句羅は顔を伏せてそう言った。
「その体でどこへ行こうというのだ。ここにおれ。」、
そう言う信尼の方を向いて燕尼は言った、
「信尼様、巳句羅をこのままにしておけばいずれ追手が嗅ぎつけますぞ」。
「巳句羅はずっと目が見えぬのだ。そんな巳句羅が何をしたというのだ。あの武者どもは道で見か
けた盲目の尼僧をこの寺に送ってくれただけじゃ。何もはばかることはない。」、
信尼は巳句羅の方を向いてそう言った。
「しかし、将門殿を失った武州の侍は色めき立ってその下手人(げしゅにん)を探しておるはずです。
巳句羅の素性を知れば。」、
そう言う燕尼の顔を見据えて信尼は言った、
「たとえ素性を知ったとて、盲目の尼が武士(もののふ)相手に何ができると問うてやれ。将門殿が
討たれたこととは何の関係もないわい」。
巳句羅に顔を向けた信尼は加えた、
「良いな巳句羅、余計なことは考えずここで養生して仏に仕えよ」、
そう言って立ち上がった。巳句羅は深くお辞儀をした。< p>
巳句羅は障子を開け、廊下越しに中庭を眺めるように座っていた。日が暮れて部屋には行燈
(あんどん)も焚かれていなかった。月もない漆黒の中庭に向かって目を開いた巳句羅は、婚礼が
決まり将門と仲睦まじく話す幸せそうな丹々の顔を思い浮かべていた。嫁いだ丹々からたびたび
送られてくる手紙には、新しい生活の充実ぶりや、将門の高潔な人格、そして武州を問わず周囲
の多くの国人から慕われるその器量の広さが伸び伸びとした筆致で書かれていたことを思い出した。
丹々と共に浮かぶ将門の顔は、誠実で聡明かつ人を引き付ける不思議な魅力を放っていた。
信尼の言葉から、将門が確かに死んでいたことが窺われた。しかし額から血しぶきを放ちながら
斃れた将門の顔が目に浮かぶたびに、巳句羅には言い知れない違和感が膨らんでいった。闇を見つ
める巳句羅は、自身の瞳が虹色に輝いていることを知る由もなかった。< p>
3カ月ほどを経て、季節は冬に差し掛かっていた。巳句羅は変わらず瑠璃寺にいた。巳句羅は
目を閉じていても、周りの尼に助けられながら修行と用事をこなした。経文を読むことはできな
かったが、読経を聞いてそれを覚え、やがて他の修行尼僧と一緒に経を唱えるようになっていた。
また、ほとんど目が見えないとは思えないほど、巳句羅には掃除や炊事もできた。事情を知らない
外部の者からは、巳句羅の目が見えていないとは察しられないほどであった。< p>
境内の端にある井戸で水汲みをしているとき、巳句羅は背後にある楢の大木の陰に人の気配を
感じた。
「奥方様」、
その気配の方から微かな、聞き覚えのある声が聞こえた。
「萬蔵、無事だったのか」、
巳句羅は振り返りそうになる自分を抑え、声の主に背中を向けたままそう言った。
少し間を置いて、木陰からさらに微かな声が発せられた。
「奥方様、お許しください、将門が生きております」。
「巳句羅殿―、お手伝い致します」、
遠くから声と共に姿を見せた尼僧の方に顔を向け、笑顔を送った次の瞬間、木陰の気配はなく
なっていた。