31. 霊気を吸い込む孫の手1
和歌山県和歌山市加太(かだ)にある淡志摩神社(あわしまじんじゃ)を訪れ、宮司、佐伯太郎
右衛門達時(さいき たろうえもん たつとき)に孫の手の借りだしを頼んだのは、海軍省砲術二佐
の樺丘仁介(かばおか じんすけ)だった。
樺丘は10か月前にもこの神社を勝芳安(かつ よしやす)と共に訪れていた。淡志摩神社に
伝わる孫の手は雷を呼ぶという言い伝えがあり、勝はそれを確かめに来たのだった。もしも自在に雷
を操れるのなら、それを外国と戦う兵器として応用することを考えていたのだった。その時は、勝が
宮司に頼み込んだ末に孫の手を借り受け、浦山の頂で空にかざして試したところ、確かに雷が孫の手を
直撃した。だがその後で、あれは雷ではない武器にはならんと坂本も言っていた、そう勝は呟いて、
孫の手を宮司に返して神戸に戻った。樺丘は、あの孫の手を兵器にすることはできんという勝の言葉を
直接聞いていた。
樺丘には不思議なことだらけだった。淡志摩神社の浦山で勝が両手に一本ずつ持って空にかざした
孫の手に確かに雷が落ち、しかもしばらくの間、まるで光の竜がその孫の手に喰いついているように
空中にのたくっていた。そしてその光の竜に向かって勝は嬉しそうな表情で話し掛けているように見え
た。坂本、勝は何度かそう呼びかけていた。さらに不思議だったのは、孫の手に雷が落ちる時にも、
雷鳴が全くしなかったことだった。静かな黒い空に、ひたすら光の竜がのたくっていたのだった。
樺丘は神戸への帰路の馬車の中で、あれは何だったのか勝に尋ねた。勝は多くを語らなかったが、
あれは天から降りてきた霊気であり、坂本だったと言った。そして樺丘にとって最も不思議だったの
は、勝の諦めの早さだった。普段の勝なら、そう簡単には諦めずあの手この手を考え、周囲にも考え
ろと命じるはずだ。しかも多忙な折にわざわざ和歌山まで出向いて行ったことなのに、その諦めぶり
が勝らしくないと樺山には映った。坂本も言っていた、これも何のことかわからなかった。
その後の数か月間というもの、樺丘は海軍がフランスから購入して神戸海軍操練所に持ち込んだ新式
の大砲を使った訓練に明け暮れた。
一日の訓練を終えたある日の夕刻、樺丘は勝の執務室すなわち操練所所長室に呼ばれた。
「樺丘です。」
そう叫んで訓練用の軍服のまま樺丘が所長室に入ると、勝の机の前に袴姿で短髪の長身が立っていた。
椅子に座って背中を見せている勝に一礼した樺丘は、改めてその長身の顔に目をやり、それが女である
ことに気付いた。
「仁介、この人を連れて和歌山の淡志摩神社に行け、孫の手を見せてやってくれ」、
勝は立ち上がりながらかなりの大声でそう言って振り向き、樺丘の顔を見た。勝が声を張りはっきりと
しゃべる時は、その言葉が命令である時だ。
「この人は。」、
当然の樺丘の質問だった。
「この人はな、あれを使えるかも知れん、詳しいことはこの人から聞いてくれ、馬車は貸せんから馬で
行け、いいな。」、
勝が言い終わるよりも早くその女は歩き始めた。
「行くで。」、
樺丘に笑顔で一瞥を向けてそう言った女は部屋から出て行った。
「所長。」、
そう言って顔を見る樺丘に勝は、女を追え、そういう手振りをした。
あっけにとられて、砲術の訓練をどうするか尋ねる樺山に、
「わしから砲兵長に言っておく。」、
ため息交じりにそう言った勝は椅子に腰を落とした。
「ご免。」、
そう言って所長室を飛び出した樺丘は、廊下を早足で歩くその女に追いついて背中越しに話し掛けた、
「お前は何者だ、勝様はなにを。」
その声に被せて、
「化幻玄師(けげげんし)、紗奈妓(さなぎ)」、
と女は微笑みながら足を止めずに答えた。前に回り込んで聞き返す樺丘の眼を見た女は、歩を止めて
一層微笑みながら言った、
「うちの名前は紗、奈、妓じゃ、早う馬を見せてくれ。」、
紗奈妓は厩舎に向かっているのだった。
40頭近くいる馬をしばらくの間眺めて歩いた紗奈妓は、ある馬の前にとまってにこにこしながら樺丘を
手招きした。
「この馬を借りるけん、鞍を付けて、明日卯の刻、つまり5時じゃね、門の前に出とってくれ樺丘殿、
勝様の命令は道々話すけん。」、
元気よくそう言った紗奈妓は樺丘の返事も求めず足早に去って行った。
翌朝5時を過ぎた辺りに、樺丘は自分の馬と紗奈妓が指名した馬の2頭を引いて神戸海軍練成所の
正門の奥に現れた。紗奈妓は閉ざされた正門の外にいた。男の洋装に身を包み脇差を腰に携え、風呂敷
包みをたすき掛けに背負っていた。
馬を駆り軍兵と共に調査に行くということで、紗奈妓は機動的な服装として男の洋装を選んだ。
女が男装をすることは珍しく、ましてや明治の初期は男でさえ洋装は役人や軍人などに限られていた
ので、男の洋装をする女はいなかった。だから平均的に小柄な女にとって、身に合う男の洋服は
見つけにくい。幸い、4尺6寸(約175センチメートル)ある樺丘と並んでも引けを取らない長身の
紗奈妓には、神戸で自分に合う洋服を見つけるのに難儀はしなかった。ただ、必要とはいえ脇差や
風呂敷包みなどを携えた洋装は珍妙な恰好ではあったが、紗奈妓は気にしなかった。
甲高い金属音が響いた。目を擦りながら着流し姿で正門の片側を開ける門当番に礼を言いながら、
樺丘は2頭の馬を引いて出てきた。正門を閉めた門当番は何も言わずに引っ込んで行った。向こうに
着くまではうちが先を走る、自分が指定した馬を一目で見抜いた紗奈妓はそう言って鐙(あぶみ)
を踏み上がり、走り始めた。樺丘は無言で従った。
民家のある一帯を抜け、海岸沿いに差し掛かった辺りで馬の歩みを緩めた紗奈妓は、話し始めた。
それまでは周囲の耳目を避けるために、ひたすら無言で走っていた。樺丘も、紗奈妓の意図を汲んで、
無言でついて行ったのだった。
「樺山殿も一緒に行ったんじゃな。」、
そう言って口を切った紗奈妓は進路を向いて微笑みながら続けた、
「雷を呼ぶ孫の手とやらが淡志摩神社にある、じゃが勝様が試したところでは現れたのは雷じゃ
のうて知り合いの魂じゃったということじゃな。これじゃあ兵器にはならんと勝様は最初は諦め
かけたんじゃが、雷のような破壊力はのうてもあの世の住人と話しができるような奇妙な力がある
んなら、別の役立て方もあるかも知れんと思われたようじゃ。」
「別の役立てとは」、
そう言って遮る樺山の方を向いた紗奈妓は笑顔で言った、
「そりゃ色々考えられるじゃろう、海軍のことだけじゃのうてな。」
「丘の戦いってことか。」、
そう言って眉根を寄せる樺山に紗奈妓は続けた、
「じゃから戦につかう得物だけじゃないってことよ、文明開化の世じゃ、色んなところで役に立つ
かも知れん。」
「勝様は神戸海軍操練所の所長だぞ、戦と海軍のことを一番に考えておられるはずだ。」、
確信したように話す樺丘から視線を逸らして前方に顔を向けた紗奈妓は笑顔を空に向けて言った、
「そこが勝様よ、海軍や戦に限らずいつも広く世の中のことを考えているんじゃ。」
漁師の一団が網を運ぶ姿を前方に見た2人は話を中断した。