30. 命と意思を持った水を探す者3
悲鳴を上げて足をばたつかせる綾丸の左腕は鬼灯(ほおずき)と寛蔵によってしっかりと床に
押さえつけられており、右腕と上半身は伽今(がこん)が押さえていた。激しくばたつかせた足に
顎を蹴られてのけぞり右腕を放しそうになった伽今を鬼灯は怒鳴りつけた、
「馬鹿たれがしっかり押さえとけ。」
伽今は綾丸の下半身と右腕に体を被せるようにして押さえ直した。飴草の汁を染み
込ませた布で巻かれ押さえつけられた綾丸の左腕の上には、子供の拳ほどの熱気に揺らめく炭火が
一つ置かれていた。蓮伽上人はその炭火の上に右手の平をかざし、左手を自身の額に当てて念を
込めた。しばらくすると突然炭火が赤から青に変わり、そして消え、綾丸の左腕から黒い煙のよう
なものが発し腕の周囲を包んだ。
蓮伽上人(れんがしょうにん)が途轍もない大声で叫んだ、
「綾丸、念を込めよ、綾丸、綾丸ぅ。」
突如両目を見開いた綾丸は紫法印(しぼういん)を唱え、左手を握りしめて念を込めた。綾丸の左腕
を取り巻いていた黒い煙がその数十倍にも膨れ上がり、綾丸から離れて庭に出て行って地面に落ち、
地中に浸みこんで行った。
夜が明けて鳥の鳴き声が芳しい千厳寺(せんげじ)別院の廊下にあわただしい足音がした。障子
を勢いよく開けて珠実と瀬名が別堂に入ってきた。日蓮上人坐像の前には、布団に眠る綾丸の姿だけ
だった。足音を殺して綾丸に近づいた珠実と瀬名は、布団の上に出た綾丸の左腕をしげしげと見た。
包帯の巻かれていない手の甲や指は普通の肌の色だった。
「黒うのうなったなぁ」、
押し殺した声で呟きながら瀬名が綾丸の傍らにしゃがみ込んで綾丸の左手と珠実の顔を交互に見た。
右手の人差し指を立てて口に当てた珠実もしゃがみこんで、綾丸の左手と顔を何度も見返し、瀬名に
あごを振って部屋から出る合図を送った。足音を立てないよう忍び足で廊下に出て静かに障子を閉めた
二人に庭から伽今が箒を持って声を掛けた、
「お早う、どしたんじゃお前ら。」
「あの姉ちゃんはどうなん、手は黒うのうなっとるね」、
と尋ねる珠実に伽今は鼻の先を天に向け箒を振り回しながら言った、
「そりゃあ、わしが黒い煙を追っ払ろうたんじゃ。」
「がーちゃんが治したん?」、
瀬名が言うが早いか、
「がーちゃんはあの子に蹴とばされんように抱きついとっただけじゃろうが」、
そう言いながら伽今の後ろ頭を押し叩いて鬼灯が現れた。
「がーちゃんじゃのうてよぉ伽今上人と呼べえや」、
そう言って振り返った伽今は鬼灯に箒を振り下ろした。
伽今が当てないことを見透かしている鬼灯は箒を交わしもしなかった。勢いよく振り降ろした
箒を慌てて鬼灯の頭の寸前で止めた伽今は、照れくさそうに瀬名の方を向きなおって言った、
「あの姉ちゃんは寝とったか。」
「良う寝とった、手は治っとったね、あの手が黒かったんは何じゃったん?、水に当たったって言う
ちょったけど」、
珠実が鬼灯の方に向かって尋ねた。鬼灯は瀬名と珠実を交互に見ながら答えた、
「世の中には怖い水もおるんじゃ、普通は出くわすこともないんじゃが、あいつはどっかで出
くわしたんじゃろう。」
「ほんでどうやして治したん」、
瀬名が鬼灯を見上げて言った。
「寛蔵さんとお上人さんに頼んで怖い水を追い出してもろうたんじゃ、がーちゃん上人じゃ
ないで」、
と真顔で言う鬼灯に伽今はまた箒を振り回しながら言った、
「じゃけん、わしも手伝うたろうが。」
「あれで全部抜けちょったらええんじゃが」、
鬼灯は綾丸のいる別堂の方を見てそう呟いた。
翌朝になって綾丸は目を覚ました。炭火を置いた場所に火傷の水ぶくれはあるものの、左腕は
従来の肌色に戻り、ほとんど普通に動くようになった。ただ、しばらく様子を見た方が良いという蓮伽
上人の助言によって、綾丸は当分の間寺の仕事を手伝いながら千厳寺にいることになった。
伽今は綾丸の滞在を喜んだ。伽今は修行僧だから読経や礼拝に多くの時間を使うが、仏教僧に
とって生活雑用も重要な修行の一環である。その生活雑用の時は、伽今は綾丸と一緒に作業をするのが
楽しかった。伽今には男としての下心はなかったが、やはり寺男と一緒にする作業よりも、若い女と
一緒に働く方が楽しいのは無理もない。
綾丸は伽今に指示されて寺の雑用をすることに悪い気はしなかった。同年代の仲間や友達のよう
存在がなかった綾丸にとって、おっちょこちょいだが二心のない伽今、無愛想だが優しさをその奥に
秘め自分を助けてくれた鬼灯、自分のことを心配してくれる村や寺の人々との生活は心地が良かった。
自分が暗水を操る秘伝、紫法印を継承する雅丈斉になるための修行者であることを忘れ、このままここ
にいるのも悪くないという気持ちが綾丸の頭をかすめることもあった。
左腕を治してもらってから希に、左腕に奇妙な感覚を感じることがあった。炭火による火傷の水
ぶくれは既に治り、薄黒い傷痕だけが残っていたが、必ずしもその傷痕ではなく左手の指や掌が水に
触れた時に手にビリッとした変な衝撃が走ることがあった。この変な衝撃は水を触る度毎回ではなく、
ごく希なものであった。そして手にその衝撃を感じた瞬間には、空に雷鳴が走った時のように目の前
が光った。この衝撃も光も耐え難いほどのものではなかったが、綾丸にとっては不可解で不思議な感覚
であった。
千厳寺では、寺で働く者全員が揃って別院奥の食堂で食事を取ることになっていた。綾丸はこの日
の夕食の支度も手伝った。綾丸一人が作ったのでないにせよ、食事をしながら皆から美味しいと言われ
ることにこれまでにない喜びを感じた。蓮伽上人は多弁ではなかったが、いつも皆の仕事に感謝し、
無事に過ごせているこの天地と仏の慈悲に感謝している様子が全身から滲み出ていた。夕食を取りなが
ら、蓮伽も伽今も綾丸に傷の様子を尋ねた。綾丸は、傷は治ったことと治療へのお礼を口にした後で
少し迷って、左手の不可解な感覚について初めて伝えた。
「あんな酷い目におうたんじゃけん水が怖うなったんじゃないんか、ちーと(少し)したら落ち
着かーね」、
飯椀を左手に持ち右手に握った箸でどこともなく差しながら我先にそう言ったのは伽今だった。
「なあ鬼灯よ」、
そう言って伽今が見廻したが鬼灯はいなかった。
「そうかも知れんな、あまり気にしなさんな」、
蓮伽は付け加えた。
「鬼灯さんは?」、
と言って見廻す綾丸に、ご飯を頬張った伽今が答えた、
「あいつは出掛けたら暫くは帰ってこんよ。」
夕食の片付けの後で、綾丸は蓮伽と共に本堂にいた。正座で目をつむって蓮伽の読経を聞いていた
綾丸に、蓮伽は左手の不思議な感覚のことを改めて尋ねた。そして、その不思議な感覚がある間は、
川に近づかないように綾丸に告げた。
その頃、鬼灯は綾丸の師、当代の雅丈斉を探して奥津村に向かっていた。
Интересно!