28. 思い出を変える老女2

 舞花(まいか)はバスケットボール部の友達と、兄・頼途(らいと)とそのラグビー部仲間と、
総勢9人で岡山県倉敷市に旅行に来ていた。旅館では男子の部屋に集まって、深夜までトランプで遊ん
でいた。

 舞花はトイレに行く途中に廊下で出くわしたおじいさんの言葉、外を気にしておけ、が気に
なっていた。外は変わらずの大雨で、雨音以外ほとんど何も聞こえなかったが、午前1時を過ぎた
あたりからサイレンのような音が微かに聞こえた。それを聞いて気にし始めたのは外に注意を払って
いる舞花だけで、他のみんなはトランプに夢中だった。スマートフォンで倉敷市の天候を検索すると、
大雨洪水警報と共に、避難勧告の発せられた地域の地名が箇条書きにされていた。その中に、この
旅館の住所、倉敷市真備町もあることに気付いた舞花は、部屋を出て旅館の事務所に様子を聴こうと
事務所に行って見たが、誰もいなかった。他にも不安そうな顔をして事務所に来ている客が数人
いたが、旅館の従業員は誰もいない様子だった。従業員が定時で帰宅してしまったようだ。
 自分の部屋に向かった舞花の後ろから、さっきのおじいさんの声が掛かった。部屋に戻ってみんな
で手を繋げ、しっかりと両手を繋いで放すな、と。外で鳴っているサイレンのような音、大雨、スマ
ートフォンのニュースで見た洪水警報が舞花の脳裏をかすめ、濁流がこの旅館を押し流し、みんなが
ばらばらになって水に飲みこまれる光景が目に浮かんだ。

 舞花は部屋に駆け込んだ。みんなからトランプを取り上げて叫んだ、洪水が来るからみんなで手を
繋いで放したらあかんよ、と。急にどうしたん舞花ちゃん、洪水がなんじゃって、とみんなは笑いなが
ら床に座ったり寝転がったりして動かなかった。今から洪水が来るんじゃけん、早う手を繋いで、
早う、舞花は大声で言いながらみんなの手を取って繋がせた。みんな半信半疑だが、舞花のただならぬ
表情に圧倒されて、手を取り合って円陣を組んで座った格好になった。舞花はまだ円陣に入らず、窓
の障子を開けてガラス越しに外の様子を見ていると、バキバキという音が廊下から鳴り響いた。舞花も
こっちに来い、頼途が叫んだそのとき、濁流が窓を押し破って部屋の中に流れ込んできた。

 洪水と共に押し寄せた濁流によって、旅館の建物が倒壊して川に飲み込まれた。部屋の天井や壁が
ばらばらになって濁流に押し流される中、手を繋いでいた8人は名前を呼び合ってお互いの無事を確認し
ていた。しかし舞花はそこにいなかった。闇夜で大粒の雨に打たれながら8人は必死に支え合って
立ち泳ぎをしていた。息継ぎも苦しい中で8人は舞花の名前を呼び続けたが、返事はなかった。

 舞花は暗闇の濁流の中で一人何かに掴まっていた。手触りからどうやら発泡スチロールの箱で、
掴まっていれば水に浮いているのは難しくなかった。しばらく流されて息が落ち着いたときに、舞花は
大声を上げて頼途や友達の名前を呼んだが、誰からも返事はなかった。水に流されながら落ち着いて
周囲を見ると、真っ暗ではなく、小さな明かりが所々にあった。否応なく口に入る水の味が塩辛くない
ことから、ここは海ではなくまだ川で、周囲の光は川沿いの家なんだと考えた。ほとんど何も見えない
ほど暗い水の中で、ときどき材木や瓦礫が体をかすめた。すると建物のような大きな何かに行きつい
た。瓦がのっていることから、屋根のようだった。舞花は発泡スチロールを離さないようにその屋根に
取り付き、水から上がることができた。雨は少し小降りになっていた。水流によって揺れる屋根の棟
まで上がって、周囲を見渡したが小さな明かり以外は何も見えなかった。気持ちが落ち着いてきた
ところで、左足に痛みがあることに気付いた。ジャージのズボンをまくり上げて膝を見ると、切り傷が
あったが出血はひどくなかった。他に怪我はしていないか、落ち着いて体の痛みを探してみたが、左膝
以外には怪我はないようだった。改めて頼途や友達の名前を力一杯呼んだが、返事はなかった。

 時々みんなの名前を呼びながら、屋根の上でどれくらい時間が経ったかわからなかった。薄白く
なってきた空を見上げた舞花には、いくつかの光景が目に浮かんだ。濁流が部屋に飛び込んできたとき
に崩れた天井の下敷きになった友達の姿、濁流に押し流されながら瓦礫の直撃を受けたマネージャーの
姿、そしてなぜか酷い怪我をした自分を抱えて泳ぐ兄・頼途の姿が見えた。頼途は自分を抱えて暗闇を
泳ぎ、自分を転覆したボートの上に押し上げているときに瓦礫に巻き込まれてさらに流されていった。
なぜそんな起こってもいない光景が目に浮かぶのか、舞花にはわからなかった。自分とは別れてしま
ったみんながどうなっているかまだ知りようもないし、少なくとも自分が大怪我をして頼途に抱え
られて泳いだことはなく、頼途が瓦礫に巻き込まれたのを見てもいないのだから。

 薄明るくなってきて周囲が見え始めた。意外と近くに岸があった。遠くからヘリコプターの音が
聞こえてきた。兄や友達の名前を呼んでいると、おーい誰かおるんか、という声が聞こえてきた。舞花
は大声で返事をした。
 雨はほとんど上がり、周囲はすっかり明るくなった。舞花を囲む濁った川はゆるやかに流れていたが
激流というものではなくなっていた。真備町消防団と書かれた服を着た2名の人が、ゴムボートに乗って
舞花の座っていた屋根にやってきた。この屋根から岸までは50mほどだった。舞花は消防団員に補助
されてゴムボートに乗り込み、ゴムボートはロープで引かれて岸へと近づいて行った。無事に岸に上げ
られ大きなタオルを掛けてもらった舞花は、すぐさま消防団員に頼途と友達のことを尋ねた。

 舞花ぁ、遠い呼び声に振り向くと、そこには頼途とマネージャーがいた。自分の指を舐めていた
犬を連れて、おじいさんが去って行った。舞花は、岡山県井原市芳井町の凰寿寺(おうじゅじ)に
お参りに来ている我に返った。このおじいさんだ、外に気を付けろみんな手を繋げと旅館の廊下で
自分に声を掛けてくれたのは、舞花はそう思った。いやそんなはずはない、あれは8年も前の真備町の
ことだし、あの時の人と偶然ここで出くわすなんて。舞花が去っていくおじいさんの後姿を目で追って
いると、頼途が近づいてきた。犬が好きでも他人の犬を不用意に触っちゃいけんで、頼途はあきれた
ように苦笑しながらそう言った。無事だったんじゃねお兄ちゃんもマネージャーも、大袈裟な表情で
そう言う舞花にあきれたようにマネージャーは言った、ええ加減にマネージャーじゃのうてお姉さん
て言うてよ、と。

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