27. 思い出を変える老女1
服部舞花(はっとり まいか)は岡山県井原市芳井町の凰寿寺(おうじゅじ)を訪れていた。
化粧品を販売する会社に勤める22歳の女性だ。今年、平成31年春に大学を卒業して就職し、
岡山市に勤務することになった。
舞花は凰寿寺の伝説に興味があった。凰寿寺にはセミという名の老婆がいて、悲しい過去を
持つ者はセミに会って話せばその過去を変えられる、という伝説である。それは、舞花には変え
られるものなら変えたい過去があるからだ。
古くて朽ちそうに見える鳥居をくぐり、参道を歩いて本堂に向かった。石造りでかなりでこ
ぼこの酷い参道の左端を歩きながら周囲を見ると、他に誰も参拝している様子はなかったが、箒で
地面を掃く音が聞こえて次第に大きくなったと思うと、狛犬の陰からタオルを頭に巻いた年配の
女性が姿を現した。
挨拶をして、この寺の人かと舞花は尋ねた。近所に住んでいて時々掃除に来るんじゃ、と答え
ながら顔を上げたその女性は、舞花の親ほどの年に見え、お婆さんとは言えなかった。岡山市
から来たことなど短い会話をしてその女性とすれ違い、狛犬の間を通って本堂に近づいた。合掌
して礼拝した舞花は、足元に犬がいることに気付いた。
白い毛並みのきれいな犬で、首輪がついていたが紐はついていなかった。舞花は膝を落として
その犬の頭を撫でながら、犬好きだった兄のことを話し始めた。すると犬の横に、年配の男性、
おじいさんと言ってもよさそうな年恰好の人が微かに笑んで立っていることに気付いた。
平成23年の夏休み、舞花は3歳年上の兄、頼途(らいと)と一緒に岡山県倉敷市に遊びに来て
いた。舞花と頼途はとても仲が良く、お互いの友人と一緒に遊びに行くこともよくあった。この夏
休みは、舞花の中学校の友人3人と頼途の高校の友人4人を伴って倉敷への一泊旅行をしたの
だった。
舞花の友達は同じバスケットボール部の女子で、いつも一緒にいる仲良しグループだ。普段
は休日もバスケットボールの練習や試合で塞がることが多く、この夏休みも連続した休日は合宿
明けの3日間だけだった。夏休み中の部活の日程が決まった時に、舞花の仲良しグループは話し
合い、3日の休みにどこかへ旅行に行こうと考えた。そのために、夏休みの宿題は普段から少しずつ
必ずやっておこうと、宿題のためにこの3日間の休みを費やしないで済むようにしかりとやって
おこうと約束をした。舞花たちは夏休みに入るとすぐに集まり、宿題遂行作戦を立てた。宿題を
する毎日の計画を細かく立て、部活の練習で集まる度にお互いにその進み具合をチェックすると
いうわけだ。
頼途の友達は同じラグビー部の部員だった。一人はマネージャーの女子で、他の3人は選手の
男子だった。マネージャーは頼途の幼馴染で頼途と仲良しだった。二人は付き合っているという
意識はなく、小さい頃からの仲良しで一緒に遊びに行くことがあるという間柄だったが、他人から
は二人は付き合っていると見えていた。3人の男子は頼途と仲良しだったが、このマネージャーに
近づきたいという思いもあった。この夏休みにラグビー部の練習休みが舞花のバスケット部の練習
休みと重なり、舞花の仲良しグループと頼途とマネージャーが一緒に旅行に行こうという話になった
時に、この3人の男子が加わることを望んだ。
マネージャーは優等生で、夏休みの課題も日々確実にこなしていくタイプだ。旅行に行くなら宿題
を日々しっかりとやっておく、そしてそれを事前に細かく計画してお互いにチェックし合う、これを
舞花にアドバイスしたのはこのマネージャーだった。頼途も3人の男子友達もそういう緻密な計画性
はなく、夏休みの最後近くになって徹夜して課題をやってしまうようなタイプだったから、特に課題
を事前にやっておくような準備はしていなかった。
舞花の仲良しグループにとって頼途とその男友達は憧れに近かった。スポーツと勉強に秀出
た年上の男性、そういう存在だった。だから、舞花の仲良しグループにとって頼途や頼途の男子
友達と一緒に行く旅行はとても楽しみで、そのために立てた宿題の計画もまた楽しいものだった。
舞花と仲良しグループにとって、倉敷旅行までの日々はとても楽しくて充実していた。
舞花と頼途を含む9人は山陽本線の各駅停車で倉敷駅に着いた。旅行2日間の天気予報は雨で、
倉敷駅に着いた時は小雨だった。空は厚い雲に覆われて薄暗かったが、9人は晴天の空を飛び回る
雲雀のように車内からはしゃぎ通しだった。
初日はアイビースクエアや美観地区を歩き回った。一緒に歩くことが楽しく、一緒に食べる物が
何でもおいしくて楽しくて仕方がなかった。倉敷市内は小雨だったが、倉敷市内を流れる高梁川
の上流にあたる高梁市や真庭市では夜明けから大雨で、高梁川の水位はどんどん上昇していた。
夕方になると倉敷市内の雨も激しくなってきた。気象庁から大雨雷雨洪水注意報が出ていたが、
9人は気にも掛けず合羽を着て町中を歩き、はしゃいでいた。なまこ壁と呼ばれる漆喰で作られた
土塀のモザイク模様の一つ一つが、舞花たちにとっては楽しい話題になった。
日が暮れて土砂降りとなったころ、9人は予約してあった旅館に入った。旅館は、倉敷駅から
伯備線で清音駅まで行き、そこから歩いて15分ほどの真備町にあった。男子と女子で分かれて
泊まるために部屋を2つ取ってあったが、食事と入浴を終えた後は男子の部屋にみんな集まって、
トランプで遊んだ。大騒ぎをして旅館から一度注意を受けた後はひそひそ声で遊んだが、それが
返って楽しく、深夜までトランプは続いた。
舞花がトイレへ行こうと扉を勢いよく開けて部屋を走り出た時に、廊下で人とぶつかりそうに
なった。相手は年配の男性で、舞花ならおじいさんと呼んでもよさそうな年恰好の人だった。
何となく見覚えがあったが思い出せずに会釈をした舞花にそのおじいさんは言った、楽しそうで
ええことじゃが外の様子に気を付けておくんじゃ、と。