29.  命と意思を持った水を探す者2

 珠実(たまみ)は川原で洗濯をしていた。そこは岡山県苫田郡鏡野村にある奥津川の上流で、 大きな滝のほとりのこの川原で6才の妹・瀬名(せな)のもりをしながら家族の洗濯をするのが 11才になる長女、珠実の役目だった。洗濯は毎日ではなかったが、二日間降った雨のために できていなかった三日分の洗濯物を抱えて川原に来ていた。雨のせいで水が増え、滝にはいつも よりも大量の水が轟音と共に落ちていた。  一通り洗濯を終えた珠実が瀬名と遊んでいると、滝の水音に混ざって人の悲鳴が聞こえた。 二人が滝の方を振り向くが早いか、二人の人間が滝から飛び出し大きな音を立ててが滝つぼに落ちた。 落ちた者の一人が直ぐに水面に頭を出し、もう一人の襟を掴んで泳ぎ川原に上がった。引き揚げ られた方は息を切らしてむせ込んでいたが、引き揚げた方は髪の水を絞り落としながら平然と歩いて 川原に座った。 「鬼灯(ほおずき)ねえね」、 珠実が叫んだ。 「姉ちゃんはいっつもこの滝から帰ってきよるけどええ加減にせんと怪我するけんね」、 そう言った珠実の横で、瀬名がぽつんと言った、 「誰?」 川原に転がって水を吐き出しながら咳き込んでいるもう一人に瀬名が近寄ろうとすると、鬼灯は大声 を出した、 「そいつに触っちゃいけんよ、珠実、寛蔵(かんぞう)さんを探して千厳寺(せんげじ)に連れて きて、水に当たったもんがおるっちゅうて。」 「水に当たったってなんよ」、 と尋ねる珠実に、 「ええけん早うせえ、水に当たったって言わなあかんよ」、 と鬼灯は厳しい表情で怒鳴った。 戸惑いながらも走り出した珠実を見て、瀬名はその後を追おうと洗濯物の入った負籠(おいこ)を 担ごうとして川原にひっくり返った。  瀬名には見向きもせず、寝そべって大きく息をしているもう一人の襟を掴んで立たせた鬼灯は、 千厳寺に向かってその者を急き立てた。その者は綾丸、左腕の肘から先がどす黒く変色していた。 鬼灯は綾丸の右腕を掴んで支えながら言った、 「左手で人に触っちゃいけんよ。」  綾丸は1日前、左手で暗水を掴んだ。意思と命を持つ水、暗水。普通はこれに触れてもただの水と 同じで何の悪影響も生じないが、綾丸は紫法印(しぼういん)の念を込めて竜の形をした暗水の尾を 掴んだのだ。紫法印は暗水を御する秘伝の一つだが、綾丸の念はまだ未熟で暗水を御する力はなく、 その中途半端な念が暗水の力と反発し綾丸の腕に入った結果、腕の壊死を起こしそうになった。 それでもしばらくの間は暗水を掴み続け、地中と地表の水脈を引きずり回された挙句、放り出されて 岩山に倒れていたところを鬼灯に担がれて連れてこられたのだった。しかし、鬼灯が何としようとして いるのか、綾丸には全くわかっていなかった。ただ、腕を失いたくなければ黙って従えと言われていた。 「離れを借りるで」、 綾丸を担いだ鬼灯はそう叫びながら、千厳寺の参道を通り本堂を迂回して別院に入った。 千厳寺は鏡野村にある日蓮宗の寺で、住職は蓮伽(れんが)という尼であった。この辺りでは住職を お上人(しょうにん)と呼ぶ。 「お上人はおってか」、 大声で叫びながら鬼灯は別院の板の間に上がり、日蓮上人像の前に綾丸を横たえた。 「どうしたんなら、またお前か鬼灯」、 そう言って現れたのはこの寺の僧、伽今(がこん)だった。 「今度は何を持って帰ったんじゃ、鬼の死骸か」、そう言って茶化し笑いをする伽今に鬼灯は怒鳴り つけた、 「くそ坊主がへらへらしちょらんで寛蔵さんを探して来い、こいつの腕が腐りそうなんじゃ」。 「なんじゃ、どげんしたんじゃ、女か」、 そう言って覗き込む伽今の頭に平手打ちを食わし、胸ぐらを掴んで鬼灯は言い含めた、 「うちは家に帰ってとってくるもんがあるけえお前は寛蔵さんを探して連れてきてくれ、さっさと せえ」。  鬼灯に突き飛ばされた伽今は転がるように別院を走り出た。 伽今と入れ違いに部屋に上がってきた瀬名に綾丸のそばにいるよう頼んだ鬼灯は、 「とにかくそいつの黒いとこに触るな、うちは飴草(あめくさ)を取りに行ったと寛蔵さんが来たら 言うてくれ、ええな」、 […]

28. 思い出を変える老女2

 舞花(まいか)はバスケットボール部の友達と、兄・頼途(らいと)とそのラグビー部仲間と、 総勢9人で岡山県倉敷市に旅行に来ていた。旅館では男子の部屋に集まって、深夜までトランプで遊ん でいた。  舞花はトイレに行く途中に廊下で出くわしたおじいさんの言葉、外を気にしておけ、が気に なっていた。外は変わらずの大雨で、雨音以外ほとんど何も聞こえなかったが、午前1時を過ぎた あたりからサイレンのような音が微かに聞こえた。それを聞いて気にし始めたのは外に注意を払って いる舞花だけで、他のみんなはトランプに夢中だった。スマートフォンで倉敷市の天候を検索すると、 大雨洪水警報と共に、避難勧告の発せられた地域の地名が箇条書きにされていた。その中に、この 旅館の住所、倉敷市真備町もあることに気付いた舞花は、部屋を出て旅館の事務所に様子を聴こうと 事務所に行って見たが、誰もいなかった。他にも不安そうな顔をして事務所に来ている客が数人 いたが、旅館の従業員は誰もいない様子だった。従業員が定時で帰宅してしまったようだ。  自分の部屋に向かった舞花の後ろから、さっきのおじいさんの声が掛かった。部屋に戻ってみんな で手を繋げ、しっかりと両手を繋いで放すな、と。外で鳴っているサイレンのような音、大雨、スマ ートフォンのニュースで見た洪水警報が舞花の脳裏をかすめ、濁流がこの旅館を押し流し、みんなが ばらばらになって水に飲みこまれる光景が目に浮かんだ。  舞花は部屋に駆け込んだ。みんなからトランプを取り上げて叫んだ、洪水が来るからみんなで手を 繋いで放したらあかんよ、と。急にどうしたん舞花ちゃん、洪水がなんじゃって、とみんなは笑いなが ら床に座ったり寝転がったりして動かなかった。今から洪水が来るんじゃけん、早う手を繋いで、 早う、舞花は大声で言いながらみんなの手を取って繋がせた。みんな半信半疑だが、舞花のただならぬ 表情に圧倒されて、手を取り合って円陣を組んで座った格好になった。舞花はまだ円陣に入らず、窓 の障子を開けてガラス越しに外の様子を見ていると、バキバキという音が廊下から鳴り響いた。舞花も こっちに来い、頼途が叫んだそのとき、濁流が窓を押し破って部屋の中に流れ込んできた。  洪水と共に押し寄せた濁流によって、旅館の建物が倒壊して川に飲み込まれた。部屋の天井や壁が ばらばらになって濁流に押し流される中、手を繋いでいた8人は名前を呼び合ってお互いの無事を確認し ていた。しかし舞花はそこにいなかった。夜の暗闇で大粒の雨に打たれながら8人は必死に支え合って 立ち泳ぎをしていた。息継ぎも苦しい中で8人は舞花の名前を呼び続けたが、返事はなかった。  舞花は暗闇の濁流の中で一人何かに掴まっていた。手触りからどうやら発泡スチロールの箱で、 掴まっていれば水に浮いているのは難しくなかった。しばらく流されて息が落ち着いたときに、舞花は 大声を上げて頼途や友達の名前を呼んだが、誰からも返事はなかった。水に流されながら落ち着いて 周囲を見ると、真っ暗ではなく、小さな明かりが所々にあった。否応なく口に入る水の味が塩辛くない ことから、ここは海ではなくまだ川で、周囲の光は川沿いの家なんだと考えた。ほとんど何も見えない ほど暗い水の中で、ときどき材木や瓦礫が体をかすめた。すると建物のような大きな何かに行きつい た。瓦がのっていることから、屋根のようだった。舞花は発泡スチロールを離さないようにその屋根に 取り付き、水から上がることができた。雨は少し小降りになっていた。水流によって揺れる屋根の棟 まで上がって、周囲を見渡したが小さな明かり以外は何も見えなかった。気持ちが落ち着いてきた ところで、左足に痛みがあることに気付いた。ジャージのズボンをまくり上げて膝を見ると、切り傷が あったが出血はひどくなかった。他に怪我はしていないか、落ち着いて体の痛みを探してみたが、左膝 以外には怪我はないようだった。改めて頼途や友達の名前を力一杯呼んだが、返事はなかった。  時々みんなの名前を呼びながら、屋根の上でどれくらい時間が経ったかわからなかった。薄白く なってきた空を見上げた舞花には、いくつかの光景が目に浮かんだ。濁流が部屋に飛び込んできたとき に崩れた天井の下敷きになった友達の姿、濁流に押し流されながら瓦礫の直撃を受けたマネージャーの 姿、そしてなぜか酷い怪我をした自分を抱えて泳ぐ兄・頼途の姿が見えた。頼途は自分を抱えて暗闇を 泳ぎ、自分を転覆したボートの上に押し上げているときに瓦礫に巻き込まれてさらに流されていった。 なぜそんな起こってもいない光景が目に浮かぶのか、舞花にはわからなかった。自分とは別れてしま ったみんながどうなっているかまだ知りようもないし、少なくとも自分が大怪我をして頼途に抱え られて泳いだことはなく、頼途が瓦礫に巻き込まれたのを見てもいないのだから。  薄明るくなってきて周囲が見え始めた。意外と近くに岸があった。遠くからヘリコプターの音が 聞こえてきた。兄や友達の名前を呼んでいると、おーい誰かおるんか、という声が聞こえてきた。舞花 は大声で返事をした。  雨はほとんど上がり、周囲はすっかり明るくなった。舞花を囲む濁った川はゆるやかに流れていたが 激流というものではなくなっていた。真備町消防団と書かれた服を着た2名の人が、ゴムボートに乗って 舞花の座っていた屋根にやってきた。この屋根から岸までは50mほどだった。舞花は消防団員に補助 されてゴムボートに乗り込み、ゴムボートはロープで引かれて岸へと近づいて行った。無事に岸に上げ られ大きなタオルを掛けてもらった舞花は、すぐさま消防団員に頼途と友達のことを尋ねた。  舞花ぁ、遠い呼び声に振り向くと、そこには頼途とマネージャーがいた。自分の指を舐めていた […]

27. 思い出を変える老女1

 服部舞花(はっとり まいか)は岡山県井原市芳井町の凰寿寺(おうじゅじ)を訪れていた。 化粧品を販売する会社に勤める22歳の女性だ。今年、平成31年春に大学を卒業して就職し、 岡山市に勤務することになった。  舞花は凰寿寺の伝説に興味があった。凰寿寺にはセミという名の老婆がいて、悲しい過去を 持つ者はセミに会って話せばその過去を変えられる、という伝説である。それは、舞花には変え られるものなら変えたい過去があるからだ。  古くて朽ちそうに見える鳥居をくぐり、参道を歩いて本堂に向かった。石造りでかなりでこ ぼこの酷い参道の左端を歩きながら周囲を見ると、他に誰も参拝している様子はなかったが、箒で 地面を掃く音が聞こえて次第に大きくなったと思うと、狛犬の陰からタオルを頭に巻いた年配の 女性が姿を現した。  挨拶をして、この寺の人かと舞花は尋ねた。近所に住んでいて時々掃除に来るんじゃ、と答え ながら顔を上げたその女性は、舞花の親ほどの年に見え、お婆さんとは言えなかった。岡山市 から来たことなど短い会話をしてその女性とすれ違い、狛犬の間を通って本堂に近づいた。合掌 して礼拝した舞花は、足元に犬がいることに気付いた。  白い毛並みのきれいな犬で、首輪がついていたが紐はついていなかった。舞花は膝を落として その犬の頭を撫でながら、犬好きだった兄のことを話し始めた。すると犬の横に、年配の男性、 おじいさんと言ってもよさそうな年恰好の人が微かに笑んで立っていることに気付いた。  平成23年の夏休み、舞花は3歳年上の兄、頼途(らいと)と一緒に岡山県倉敷市に遊びに来て いた。舞花と頼途はとても仲が良く、お互いの友人と一緒に遊びに行くこともよくあった。この夏 休みは、舞花の中学校の友人3人と頼途の高校の友人4人を伴って倉敷への一泊旅行をしたの だった。  舞花の友達は同じバスケットボール部の女子で、いつも一緒にいる仲良しグループだ。普段 は休日もバスケットボールの練習や試合で塞がることが多く、この夏休みも連続した休日は合宿 明けの3日間だけだった。夏休み中の部活の日程が決まった時に、舞花の仲良しグループは話し 合い、3日の休みにどこかへ旅行に行こうと考えた。そのために、夏休みの宿題は普段から少しずつ 必ずやっておこうと、宿題のためにこの3日間の休みを費やしないで済むようにしかりとやって おこうと約束をした。舞花たちは夏休みに入るとすぐに集まり、宿題遂行作戦を立てた。宿題を する毎日の計画を細かく立て、部活の練習で集まる度にお互いにその進み具合をチェックすると いうわけだ。  頼途の友達は同じラグビー部の部員だった。一人はマネージャーの女子で、他の3人は選手の 男子だった。マネージャーは頼途の幼馴染で頼途と仲良しだった。二人は付き合っているという 意識はなく、小さい頃からの仲良しで一緒に遊びに行くことがあるという間柄だったが、他人から は二人は付き合っていると見えていた。3人の男子は頼途と仲良しだったが、このマネージャーに 近づきたいという思いもあった。この夏休みにラグビー部の練習休みが舞花のバスケット部の練習 休みと重なり、舞花の仲良しグループと頼途とマネージャーが一緒に旅行に行こうという話になった 時に、この3人の男子が加わることを望んだ。  マネージャーは優等生で、夏休みの課題も日々確実にこなしていくタイプだ。旅行に行くなら宿題 を日々しっかりとやっておく、そしてそれを事前に細かく計画してお互いにチェックし合う、これを 舞花にアドバイスしたのはこのマネージャーだった。頼途も3人の男子友達もそういう緻密な計画性 はなく、夏休みの最後近くになって徹夜して課題をやってしまうようなタイプだったから、特に課題 を事前にやっておくような準備はしていなかった。  舞花の仲良しグループにとって頼途とその男友達は憧れに近かった。スポーツと勉強に秀出 た年上の男性、そういう存在だった。だから、舞花の仲良しグループにとって頼途や頼途の男子 友達と一緒に行く旅行はとても楽しみで、そのために立てた宿題の計画もまた楽しいものだった。 舞花と仲良しグループにとって、倉敷旅行までの日々はとても楽しくて充実していた。  舞花と頼途を含む9人は山陽本線の各駅停車で倉敷駅に着いた。旅行2日間の天気予報は雨で、 倉敷駅に着いた時は小雨だった。空は厚い雲に覆われて薄暗かったが、9人は晴天の空を飛び回る 雲雀のように車内からはしゃぎ通しだった。  初日はアイビースクエアや美観地区を歩き回った。一緒に歩くことが楽しく、一緒に食べる物が 何でもおいしくて楽しくて仕方がなかった。倉敷市内は小雨だったが、倉敷市内を流れる高梁川 の上流にあたる高梁市や真庭市では夜明けから大雨で、高梁川の水位はどんどん上昇していた。 夕方になると倉敷市内の雨も激しくなってきた。気象庁から大雨雷雨洪水注意報が出ていたが、 9人は気にも掛けず合羽を着て町中を歩き、はしゃいでいた。なまこ壁と呼ばれる漆喰で作られた 土塀のモザイク模様の一つ一つが、舞花たちにとっては楽しい話題になった。  日が暮れて土砂降りとなったころ、9人は予約してあった旅館に入った。旅館は、倉敷駅から […]