21. 見えないものを見せる紙
そこに存在しても人の目には見えないものは数多くある。
その一つ、空中を飛び回る細長い物体がある。それは無色透明で、通常は人の目には見えないが、
夜には発光して火の玉のようになることもある。この火の玉を偶然見た人が、これを霊魂と考えて
人魂(ひとだま)と呼んだ。
宙を飛ぶこの透明な物体を見ることができる者、いや見せることができる者がいた。長我部
平衛門(おさかべ へいえもん)といった。高知藩球磨由良村(くまゆらそん)の紙漉き(かみ
すき)職人である。長我部家は高知藩で代々紙漉きを営み、武家ではない血筋でありながら藩主
から特別に名字と帯刀を許されていた。
長宗我部家の職人が作る紙の中でも、平衛門が作るものは際立って薄く優美であり、しなやか
で丈夫であった。平衛門にしか作れないその紙は、他の紙と区別されて朝霧(あさぎり)と呼ば
れた。平衛門の息子、篤逸(とくいち)も優れた紙漉き職人であったが、朝霧は作れなかった。篤逸
が作る紙と朝霧との違いを見定められる者は、長我部家の職人以外には藩内に数えるほどしかいな
かったが、篤逸にとって自身の紙と朝霧との差は、まだ超えることができない大きな壁であった。
篤逸は毎日のように朝霧を両手に取って広げ、その極意を見極めようと様々に陽の光や蝋燭の
光を当てて観察していた。平衛門は自身の紙漉き技を隠すことなく職人にも篤逸にも見せていたが、
その極意を話して聞かせることはなく、あくまでもやって見せる日々であった。篤逸には父譲りの
才能があり、父の技を見て学び瞬く間に紙漉きの技術を習得して他の職人を凌ぎ、素人目には朝霧と
区別がつかないほどの紙を作れるようになった。しかしまだ隔たりがあることは、職人たちにとって
明らかであった。
ある日篤逸は、いつものように2尺四方(およそ60cm×60cm)の朝霧を両手で広げ空に透か
して眺めていた。朝霧は薄いために、その向こうの景色がうっすらと見てとれる。すると、何か動く
物が見えた。鳥の飛ぶ影かと思った篤逸は朝霧を外して空を見たが、それらしき鳥は見当たらなかっ
た。空に向かって朝霧をかざせば何かが前を通り過ぎ、朝霧を外せば景色以外に変わった物は何も見え
ない、それを何度も繰り返した。そのうちに、朝霧を通して空を眺め、焦点を朝霧ではなくそのずっと
遠くの景色に置くと、次第に前を通り過ぎる物がはっきりと見えてきた。それは、細長く、まるで池の
中を元気に泳ぐ白い鯉のようであった。空中を泳ぐその鯉のようなものは、空のどこにいるのか、その
距離感は篤逸にはわからなかった。すぐそこのようでもあり、はるか高い空の上のようでもあった。
しばらくするとそれは遠ざかり、見えなくなった。
篤逸はその白い鯉のようなものが気になったが、本当にそんなものが見えたのか半信半疑であっ
たために、そのことを誰にも話さなかった。それからというもの、篤逸は紙漉きの合間に朝霧を持って
外に出て、空にかざした。これまではひたすら朝霧の極意を見極めるために空にかざした朝霧を観察し
ていたが、いつしか空の白い鯉を探すことの方が多くなった。自分の作った紙を透かしてその白い鯉
が見えたことはなく、朝霧を透かしたときにだけその白い鯉を見ることができた。晴れた日も雨の日
も、日中でも夜間でも、見えるときには見えた。何度も白い鯉を見た篤逸は、徐々に自分の見間違いで
はないことの自信を得たが、やはり他人にそのことを話す気にならなかった。平衛門作の朝霧を透かし
て空を見上げるなど自分しかしていないことだから、白い鯉が何者かはっきりするまでは自分だけの
胸にしまっておこう、篤逸はそう考えた。
もはや日課のように空の白い鯉を観察していたある日の朝、その白い鯉は篤逸の方に向かって一直
線に近づき、紙越しに眼前まで迫って止まった。まさしく紙一重で白い鯉と篤逸は接していたが、
篤逸が朝霧を外して見るとそこには何もなく、朝霧越しに見ながら向こうに手を回してもそこには何も
なかった。朝霧を挟んで眼前にいる白い鯉は、長さが6尺(約180cm)程度、幅が2尺ほどの大きさ
に感じられた。それまで篤逸には白い鯉のように見えていたが、間近で見れば頭もヒレもないずん胴、
長く伸ばした巨大なもちの如くであった。お前は何者かと篤逸は声を出して尋ねたが、反応はなかっ
た。ほどなく白い鯉は空中に飛び去った。
ある夜、篤逸がいつものように朝霧を透かして見ていると、再び白い鯉が眼前に迫った。そのとき
に篤逸は初めて朝霧越しに手で白い鯉に触れようとした。すると、差し出した右手は朝霧をすり抜け、
朝霧の向こうに見える白い鯉に届いた。それは、篤逸にとって初めて感じる感覚だった。魚やもちの
ようなはっきりとした物の存在感があるのではなく、ぼやっとした感触だが確かにそこにあることは
確かだった。だが、白い鯉を掴むことはできなかった。白い鯉の感触を感じながら体を捻って朝霧の
向こう側を見たが、紙の裏側が見えるだけで、肘まで入った右腕も白い鯉もやはり見えなかった。怖く
なった篤逸は右腕を引き、白い鯉は空に消えた。その時から、篤逸の右手の感覚が変わった。何かに
触れた時、その物のことが、その物の気持ちのようなことがわかる気がしたのである。障子に手を掛け
れば、障子紙の穴を塞いで欲しがっている障子の気持ちがうかがえた。切り出し小刀を持てば、以前
子供に使われたときに子供の指に怪我を負わせたことを悲しんでいる小刀の思いがわかった。
翌日取り掛かった紙作りで、篤逸は朝霧に引けを取らない紙を作り上げた。職人たちは驚き、
父、平衛門はその出来を見て満足そうに頷いた。