24. 酒と鬼を探す男2
喜太郎は夜明け前の旭川の水の中にいた。日の出の一瞬に現れる紫の酒、鶴翔(つるはね)に 出会うためである。前日に泳ぎ廻って地形を確かめているとはいえ、漆黒の川の中では川岸や木々の 黒い影以外には何も見えなかった。喜太郎はただ静かに立ち泳ぎをして感覚を研ぎ澄まして待った。 人の気配も妖気も感じられなかった。 空が白くなり川面が微かに照らされてくると、昨日と同じ微かな妖気が全身に響いた。次の瞬間、 喜太郎は迷わず口一杯に川の水を飲んだ。まさしく酒である、それもこれまで経験したことのないない まろやかで清々しくコクのある不思議な味わいを感じていると、目の前にはかつて愛した女と共に木の 枝を飛び移りながら話をしていた懐かしい光景が広がった。 その女は町人の娘の姿でいつも現れていた。喜太郎と会うときには人目を忍び、岩場や林の中や 木の枝の上など、人のいない険しい場所を望んだ。その女は自らの素性を明かしていなかった。喜太郎 にとってそれを調べるのは簡単だったが、敢えて詮索しないままにしていた。それでもその女の並々 ならぬ身のこなしを見れば、それが単なる町人のものではないことは明らかだった。喜太郎は不可思 議な現象を調べる化幻玄師でありながら、武術体術の鍛錬も怠らなかったために、その女の望む険しい 場所での待ち合わせにも応じられた。二人の間に直接的な愛の言葉はなかったが、不可思議な現象を 求めて旅を重ね魑魅魍魎を相手にすることが多い喜太郎にとって、その女と一緒にいるひと時が気持ち の休まる数少ない機会であった。 木の枝を飛び移りながら女と話をしていると、束ねていた喜太郎の髪に木の枝が引っ掛かった。 頭を強く後ろに引っ張られた喜太郎の手から女の手がほどけ、その女は自分をおいて向こうの枝に 飛び移った。喜太郎は、自分に背を向けて行ってしまいそうになるその女の名前を呼んだ。蓮佳 (れんか)、そう叫ぶ喜太郎はどんどん髪を上方に引っ張られ、木の枝から離れて宙に舞いあがり、 女から遠ざかった。 自分が水の中にいて底に足が届くことに気付いた喜太郎は我に返って泳ぎ、息を切らしながら 川原を歩いて水から上がった。周囲はほのかに明るくなっていた。川原にひざまずいて咳き込みなが ら水を吐き出してから見上げた先に、ずぶ濡れの女がいた。昨日川から上がった時に出くわした女で あった。濡れてはだけた着物を整えながら、その女は喜太郎を叱った。なぜ暗い川で泳ぐのか、酔っ 払っているのか、死にたいのか悪ふざけかと。自分は溺れかけてその女に助けられた、喜太郎はやっ と事態を理解した。 喜太郎は礼を言った。そしてこれは自殺でも悪ふざけでもなく、昨日話した伝説の調査である ことを改めて説明しながら、女に名前を尋ねた。丸岡、そういって女は背を向け、ふんどし姿の喜太郎 に着るものはないのかと言った。喜太郎は走って服を取りに向かった。服と荷物を置いて川に飛び込ん だ場所までは、200mほどもあった。ふんどしをはためかせながら尻を出して走る喜太郎の姿に、丸岡は 吹き出して笑った。 喜太郎は前日、宿代を節約するためにと国鉄福渡駅に寝たが、この日は今朝飛び込んだ川から ほど近い八幡温泉に宿を探した。八幡温泉には温泉街というほど多くの宿はなく、7件ほどの旅館が 疎らにあるだけであった。喜太郎は旅館を見て歩き周りながら旅館探しは上の空で、2回体験した鶴翔 のことを考えていた。1回目は飛び込みながらも敢えて飲みはしなかったが、2回目は大きく一口飲み 込んだ。確かに酒の味がした。助けられて川原に上がった時にはうわずって意識していなかったが、 後から思い出せば、一口飲み込んだ割には酔いの感覚がなかった。自分は酒に弱い方ではないが、一口 も飲めば大抵は軽い酔いを感じるものだった。川面に現れた鶴翔が一瞬で消えるとともに、飲み込まれ た分の効果も消えるのか、それにしては随分と長い幻影を見ていたような気がする、なぜ蓮佳の幻影を 見たのだろう。 聞き覚えのある女の声が耳に入った。上の空で八幡温泉街を歩き回っていた喜太郎が気付いて 視線を声の方向に向けると、丸岡だった。びわぁと響く男の声に呼ばれるように、小脇に木箱を抱え たまま温泉旅館の玄関の暖簾をくぐった丸岡は、間もなくさらに多くの木箱を両脇に抱えて出て きた。丸岡と視線を合わせた喜太郎は、改めて助けてもらった礼を言った。安い宿を探している ことを聞いた丸岡は、今出てきた暖簾の下をくぐって玄関に入り、またすぐに出てきた。この旅館 に手頃な部屋が空いているからここに泊まれと言い残して、お使いがあるからと箱を抱えて小走り に出かけて行った。続いて玄関から出てきた男は喜太郎を見上げ、びわの知り合いか、今夜は泊るの かと尋ねた。びわとは何かと問い返した喜太郎に、この丸屋旅館の娘で、自分の娘だとその男は笑い ながら答えた。喜太郎はとりあえずここに宿を取ることにした。 丸岡枇杷子(びわこ)、それがこの旅館の主の娘の名前、喜太郎は部屋に案内してくれた 中居から聞いた。関係を気にしている中居には、朝早くに川沿いの道で枇杷子と偶然出会って、 宿を探していると言ったらここを紹介されたと説明した。その中居に旭川の酒のことを尋ねると、 昔聞いたことはあるが良く知らない、と言って部屋から出て行きそうになった。喜太郎は呼び 止めて、旭川の酒のことを知っていそうな人に心当たりがないかと踏み込むと、この辺りのこと […]