19.  愛しあう耳栓

 実乃(みの)は地からせり出した楠の根に腰を掛けて、岩に座った惟宗(ただむね)と話していた。
二人とも目をつむり、このひと時の会話を楽しんでいた。

 実乃は松本藩(令和時代では長野県松本市)上田城下、円印寺(えいんじ)のはずれの楠の大木
の下にいた。惟宗は、横浜村(令和時代には神奈川県横浜市)の海岸の岩の上にいた。二人は両耳穴に
深緑色の玉を入れていた。お互いにこの玉を耳に入れて目をつむり、気持ちを集中すると、いくら離れ
ていても会話をすることができた。

 実乃と惟宗は幼馴染であり、特に打ち明けるともなく自然と好き合い、結婚を約束する間柄になっ
ていた。毎日昼食の時間と就寝前の2回、二人は会話をするのが楽しみだった。
 実乃は松本藩国家老、時本夏臣(ときもと なつおみ)の次女であり、姉が婿を取って時本家を継ぐ
までは、後継ぎ候補としての立場を守らなければならなかった。元来活発で文武両道に優れ、家事を
手伝い、松本城下でも良く町人と交友を持った。剣術では、松本藩御家流の白穿列流(はくせんれつ
りゅう)を修め、免許皆伝の腕前であった。
 惟宗は、松本藩普請奉行、吉家兼高(きっか かねたか)の嫡男である。安政4年(1857年)、翌年
に迫ったアメリカ太平洋艦隊の2度目の寄港に備え、海岸沿いの堤防強化工事が行われていた。惟宗
は、沿岸警備の助勢役として横浜藩に派遣されており、毎日配下を率いて沿岸の巡回や工事の見張り
を行っていた。惟宗も白穿列流の免許皆伝者であった。

 惟宗が横浜藩に派遣される半年ほど前に、二人が馬術の稽古と称して馬に乗ってデートに出掛け
ていた折に、松本藩領内の山小屋で倒れている一人の男に出くわした。二人はその男を介抱しようと
すると、その男は高熱を帯びて震えながらも、手を振り払って立ち去ろうとした。実乃が手を差し伸べ
ようとしたその時、男は刀を抜いて実乃に切りかかった。実乃は紙一重で刀をかわした。男は次々と
実乃に刀で攻撃を仕掛けたが、実乃は巧みにかわしながら自分は刀に手を掛けなかった。惟宗は動か
ず、これを見ていた。その男はその場に倒れて気を失った。実乃と惟宗はその男を馬で運び、松本城下
の知り合いの農家の納屋に匿って手当をした。数日後、元気を取り戻したその男は雷燕(らいえん)
と名乗った。

 雷燕は、もう自分の命が長くないことを実乃に語った。そして、自分に代わって2人で守って
欲しいものがあると言って、刀の柄から4つの玉を取り出して実乃に渡した。これを守り、決して
他の者の手に委ねないように念を押して、姿を消した。
 この玉の由来も守る意味も雷燕は語らなかった。ただ、この玉の使い方を実乃に話した。それは、
自分の心を通じる相手と共にこの玉を身に付ければ2人はひとつになるというものであった。雷燕が
いなくなった後、実乃と惟宗はこの玉を2つずつ手に持ってみたが何も変わったことは起こらなか
った。

 あるとき惟宗は、松本藩普請奉行所の書庫で書類を読みながら、耳障りな同僚の雑談を遮るため
に、耳栓のつもりで玉を両耳に入れた。全く雑音が消え、静かに書類を読むうちに眠気に誘われて目
を閉じていると、惟宗に実乃の声が聞こえた。我に返った惟宗は書類作業を続けたが、やはり目を
つむってしまったときには実乃の声が聞こえた。そのうちに、敢えて目をつむって耳を澄ますと、何度
でも実乃の声が聞こえることを知った。そのとき実乃は時本家の台所で、姉と共に食事の準備をして
いた。数か月前に浦賀沖に現れて大騒ぎになったアメリカの黒船のことなどを姉と話していた。

 後日、惟宗は人づてに実乃にメモを送り、預かった玉を持ってくるように馬術デートに誘った。
馬で歩きながら、惟宗は実乃にその時のことを話した。実乃はいつもの冗談だろうと笑って受け流し、
他人から預かったものを耳に入れるなどできないと断った。しかし、姉との話題を正確に言い当てた
惟宗の言葉に説得されて、自分も玉を両耳に入れた。惟宗は馬を走らせて実乃から離れ、300m程
離れた丘の上で振り返り、実乃に目をつぶるよう大げさな身振りをした。目をつむった実乃に、惟宗の
声が確かに間近に聞こえた。それも、遠くから聞こえるというよりも、まるで耳元で話しているかの
ように頭の中に響いてくるものだった。そして、実乃も惟宗に話しかけ、二人はしばらく会話をした後
に近づいて、お互いが会話したことを確かめ合った。

 横浜藩への派遣が決まった時、惟宗は実乃と示し合わせた。昼食時と就寝前の一定の時刻に定め、
お互いに玉を耳に入れて待とうと決めておいた。用心深い実乃は、この不可思議な行動が他人の目に
触れないようにと、玉を耳に入れるときには自室や納屋に籠った。時折、惟宗との思い出がある円印寺
の楠の下に来た。

 この日、円印寺の楠の下と横浜村の海岸にいる二人の会話に、別の声が割って入った。その声は
二人に、この玉が狙われていること、決して自分たちの身分や名前や所在が分かるような会話をしない
よう告げた。

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