18. 名付けてかぐや姫

 糸岡英夫(いとおか ひでお)は東京帝国大学工学部で航空機用エンジンの研究を行っていた。
それは昭和16年当時一般的なプロペラ機に用いるレシプロエンジンではなかった。糸川は全く新しい
タイプのエンジン、渦流炎推機(かりゅうえんすいき)を研究しており、後にそれはジェットエンジン
と呼ばれる技術であった。

 彼の研究棟には地下室があり、そこには彼が泊まり込む寝室と共に、特別に彼に許可を得た人
しか入れない彼個人の実験室があり、そこは糸岡壕と呼ばれていた。糸岡壕に入ったことのある学生
は語った、「糸岡壕には機械工学実験室には似つかわしくない竹竿が鉄柱に固定されて置かれてあり、
その竿は真っ赤なビロードで覆われている」、と。彼は尾道市の狩藤家で見つけた、濡れ布を干して
いつまで待っても乾かない不思議な竹竿を「かぐや姫」と命名し、学術研究のためという理由で狩藤家
の了解を得て東京に運び、糸岡壕に持ち込んでいたのである。

 糸岡は時々糸岡壕に籠り、出てきたときには必ず破天荒な発想や新たに習得した技術を披露した
りして周囲を驚かせた。かぐや姫を持ち込む前までは、研究対象はジェットエンジンではなく、新たな
ターボチャージャーを組み合わせた高出力エンジンであった。かぐや姫を持ち込んでからは、それまで
の研究を突然取りやめて、渦流炎推機の研究を始めた。
 周囲の研究仲間に渦流炎推機のコンセプトを最初に語った時は、多くの者がその原理を理解できな
かったり実現性を信じなかったりして研究の変更に反対した。そこで糸岡は糸岡壕に8日間籠って
プロトタイプを作成し、それを使った実験を仲間に見せた。実験は通常仲間と共に使う実験室において
行われた。
 糸岡が作ったプロトタイプは一升瓶ほどの大きさの金属の筒が3本束ねられた形の物であった。
実験において、糸岡の作った一升瓶は爆音と共に長さ5mもの火炎を吐き出し、取り付けてあった鉄柵
を3mも動かした。「もし鉄柵に固定されていなければ、打ち上げ花火のように飛び出して行っただ
ろう」と糸岡は説明した。「この小さなプロトタイプで2トンもある鉄策をこれほど動かす推進力を
発揮するのだから、これを飛行機に取り付ければプロペラ式エンジンを遥かに上回るスピードが出る
はずだ」、糸岡がそう熱弁を続けているとき、一升瓶は炸裂して実験室は炎に包まれた。

 鎌成は竹竿を探しに行った尾道の狩藤家から先に引き上げた後、東京に戻った糸岡から事の顛末
を聞いた。糸岡は自分が経験したことを全て鎌成に話して相談し、狩藤家の了解を得てかぐや姫を借り
受け、糸岡壕に持ち込んでいた。鎌成には、4mにも及ぶ竹竿を置いて管理できるような広い部屋が
なかった。鎌成は東京大学文学部民俗学の助手なので、従来は工学部の実験棟に出入りすることは
ほとんどなかったが、かぐや姫を持ち込んでからは、糸岡壕を訪ねることが多くなった。かぐや姫に
ついては糸岡と鎌成との二人の間の秘密であり、お互いの研究仲間にも一切伝えない約束であった。

 かぐや姫を糸岡壕に持ち込んで鉄柱に渡して水平に固定した後、鎌成は糸岡の言うとおりに
かぐや姫にぶら下がってみた。その瞬間、鎌成に見えていた糸岡壕の実験室の風景が一変し、眼前
には筵(むしろ)に座って稲藁を縒り合せて縄を作る人が現れ、鍬を振りながら土塁を築く工事をし
ている作業を空から見て、地引網を引いている漁師の姿を網に捉えられた魚の視線から見た、と思った
ところで糸岡の顔が現れて我に返った。糸岡が鎌成を竿から引き降ろしたのである。ぶら下がって床か
ら足を離した瞬間から自分では元に戻れなくなるので、糸岡がぶら下がる時はいつもタイマーを掛けて
一定時間でかぐや姫の一端が床面まで下がるようにしている。民俗学を専攻し、普段から昔の人々の
生活を研究している鎌成には、かぐや姫にぶら下がることによって昔の人々の生活場面が見えたので
あった。
 この体験以来、糸岡と鎌成は時々かぐや姫にぶら下がっては新たな着想やきっかけを得て、自身の
研究や学習を進展させるようになっていた。

 ある時鎌成は、加賀藩前田家の蔵書を研究者向けに公開した尊経閣文庫の中で物類品隲注考
(ぶつるいひんしつちゅうこう)という明治時代の文献を発見した。これは、不思議な竹竿を探す根拠
となった蒲生源内(がもう げんない)の博物学書、物類品隲(ぶつるいひんしつ)の解説論文であ
る。この中で、濡れ布を干しても乾かない竹竿についての調査結果があり、この竹竿を用いた企ては
必ず失敗する、と書かれてあった。

 このことを糸岡に知らせようと工学部を訪れた鎌成は、糸岡の研究棟で火災が起こっている
ことを知った。研究棟の外に避難して消火活動を見守る人々は、糸岡が周囲の制止を振り切って
地下の糸岡壕に入ったまま出てこないらしいと語っていた。

 群衆に紛れる一人の女性が、炎に包まれる研究棟の傍らで立ち尽くす鎌成の視界に入った。
その女性は、鎌成がかぐや姫にぶら下がって体験した多くの場面の一つに現れた人物であった。
名は鬼灯(ほおずき)、鎌成はそう記憶していた。

Follow me!

Leave a Reply

Your email address will not be published. Required fields are marked *