20. 嫉妬する耳栓
松本藩普請奉行所、普請勘定方助役の吉家惟宗(きっか ただむね)は、横浜藩に出向し、横浜村 沿岸の防波堤工事の監督と警備を助成していた。 毎日昼食休みと就寝前の2回、松本藩国家老の次女、時本実乃(ときもと みの)との会話を楽し みにしていた。旅の浪人から預かった玉をお互いの両耳に入れて目を閉じると、松本と横浜に離れて いても、2人はまるで傍らにいるかのように会話ができたのである。 横浜藩での勤めに慣れてくると他藩との交友も頻繁になり、惟宗は実乃との秘密の会話に応じられ ないことが起こり始めた。勤めが忙しいとわかってはいるが、実乃は不満と不安を募らせる日が続いた。 惟宗が沿岸警備を行っていたある日、共の女中を連れた若い女に出くわした。その女が持っていた 袱紗が風で飛ばされて数メートル下の海際の岸壁の岩に引っかかり、取り戻せなくて困っていたのであ る。惟宗は事情を聴いてそれが大切な書簡であることを知ると、その岩場につたい降りてその書簡を 取ってきてやった。その若い女は非常に感謝し、頭巾を取って名乗った。織蔵七瀬(おりくら なな せ)といった。そわそわする仲間を不思議に思いながら、惟宗は多くを語らず会釈をして、仲間と共に 警備の巡回に戻った。自分には許嫁(いいなずけ)の実乃がいるという思いが、惟宗に見知らぬ若い女 との会話を控えさせた。その若い女が横浜藩勘定奉行、織蔵陣右衛門(おりくら じんえもん)の長 女であることを、横浜藩の仲間が語った。藩内でも評判の美形であり、才女としても名高く、加門院流 槍術の師範代ということであった。美形の七瀬を前にして仲間がそわそわしていたのだと、惟宗は 合点がいった。その夜、惟宗は耳に玉を入れて実乃と会話をしたが、七瀬のことには触れなかった。 数日後、横浜藩の道場に加門院流の一行、22名が現れた。全員が女であった。これは月に一度 行われる、藩御家流剣術の長束一刀流(なつかいっとうりゅう)と、藩公認女流槍術である加門院流と の合同稽古であった。長束一刀流側は布を幾重にも巻き付けた木刀、加門院流側は穂先に布玉を付けた 稽古用の槍を使って、練習試合を行うというものであった。元来、槍と刀とでは、槍の方が優位だ。 槍は、刀の長さよりも遠い位置から最小限の動きで相手の急所を突くことができるからである。それで も、槍の間合いよりも接近戦になれば、刀の方に分がある。槍術使いの重点は、刀の間合いまで近寄ら ないで勝負をつけることにある。このことから、この合同稽古では真剣な試合というよりも、加門院流 が刀を相手に戦う練習をする、そのための稽古台として長束一刀流道場の若手が相手をする、そういう 申し合わせになっていた。無論、長束一刀流は男ばかりなので、女流の相手をするのは楽しいし、本気 を出せばいくら槍が相手でも女に負けるはずがないという気持ちの余裕があった。ただし、加門院流の 師範代だけは別格に強く、長束一刀流の若手が本気を出しても叶わない程であった。 その合同稽古は、惟宗が横浜藩に出向してから、初めて行われるものであった。松本藩御家流の白穿 列流免許皆伝者である惟宗も長束一刀流道場に出入りし、普段から稽古を行っていた。この合同稽古で は、練習試合が次々と行われ、最後に加門院流師範代が出てきた。相手が手強い師範代とあって尻込み している若手男どもを見た長束一刀流の師範から、惟宗を推す声が上がった。惟宗は仕方なく、練習用 木刀を借りて道場中央に出た。視線を据えた先には、見覚えのある顔があった。織蔵七瀬である。 七瀬は無表情のまま一礼し、3歩下がって槍を構えた。惟宗は抜刀の型を経て、木刀を正眼に構え た。次の瞬間、気合と共に七瀬の突撃が繰り出された。惟宗のみぞおちに入る、そう見えた一瞬、惟宗 は横に動いて紙一重でこれを避けた。七瀬は次々に突撃と斬撃を織り交ぜて繰り出したが、惟宗は木刀 を合わせず、体の動きのみでこれらを交わし続けた。七瀬が連続攻撃を止めた一瞬の隙をついて、惟宗 は槍の間合いの内側に入り、木刀を七瀬の右首脇に乗せた。七瀬は槍を引いて下がり、降参の一礼を した。 その翌日、藩剣術指南役である長束一刀流棟梁から惟宗に相談があった。惟宗は松本藩士であるため に、横浜藩指南役からは指図ではなく相談となっているが、実際には命令である。それは、加門院流 女流槍術の非常任師範として、頻繁に稽古をつけてやれという内容であった。聞けば、先日の合同稽古 において加門院流師範代である七瀬が惟宗の腕に感服したことから、七瀬から父の勘定奉行を経由して 長束一刀流棟梁にその依頼が来たとのことであった。出向者の立場ゆえに断ることができず、惟宗は 3日に一度、加門院流道場を訪れて指導にあたることになった。これによって惟宗はそれまで以上に 自分の時間が思うように使えなくなり、実乃との秘密の会話をすっぽかすことが増えて行った。 惟宗は自分が忙しくなった事の次第を手紙に書き連ね、実乃宛に送って秘密の会話の待ち合わせを 減らすように伝えた。実乃はこれに応じるしかなかったが、不安と不満はますます募っていった。その ために、やっと叶った惟宗との秘密の会話で、実乃の気持ちが弾けた。この玉を使った会話では自分た ちの身分や名前や所在が分かるような話をしてはいけない、この玉は狙われている、第3の声にそう 忠告されて以来、2人は暗号のような言い回しを使って会話をしていた。しかし、もはや抑えが利か なくなった実乃は、自分達の名前や勤めや藩の事情などを言葉にし、思いのたけを言い募った。惟宗 は落ち着くよう実乃を諭し、忙しくても実乃を思う気持ちに変わりはないことを告げて、秘密の会話 を終えた。 屋敷に戻り、寝床に着いた実乃は、玉を両耳に入れて眠った。もしかすると惟宗の声が聞こえる、 […]