12. 霊気と話す雷

 

 淡志摩神社に置かれている一対の孫の手。この孫の手で雷を掴む姿を見た宮司・佐伯篤左衛門義忠
(さいき とくざえもん よしただ)は日記に詳しいことを書き残さなかった。孫の手を受け継いだ
後代の宮司は、それを残した橘正雪が由比民部之助橘正雪(ゆい かきべのすけ たちばなの 
しょうせつ)であったことを知った。慶安4年(1651年)に発生した慶安事件、すなわち幕府への反乱
の首謀者であり、翌年自刃した者であった。僅かに義忠の日記に書かれている橘の言葉、「あれは雷
ではなく、忠弥の霊気である。」の忠弥とは、慶安事件の共謀者、丸橋忠弥に違いないと考えら
れた。  忠弥の霊気である、それが何を意味するか義忠は日記にも書き残していない。義忠が橘と共に裏山に
登った時には、丸橋忠弥は既に打ち取られてこの世にいなかったはずであることから、橘は雷によって
丸橋の魂と話し、その死、そして事件を起こした同朋の壊滅を知ったからこそ、この神社を出て駿河に
戻り、自害したのであろうと語り伝えられていた。

 宮司後代の言い伝えは次第に変節し風聞となり、孫の手が雷を呼んだ、孫の手が雷を発した、
由比正雪がこの孫の手で江戸城を爆破したらしい、など孫の手の威力が伝説と化した。それと同時に、
そんな威力があるはずもない、単なるおとぎ話だと考えられるに至った。

 この孫の手の威力をどこからともなく聞きつけて、戦闘に利用しようと考えたのが勝安芳(かつ
やすよし)であった。勝はこの孫の手だけでなく、巷の妖しい伝説や風聞を集めさせ、明治政府軍の
武器となり得そうな力に当たりをつけると、その真偽を確かめるべく奔走していた。
 巷の伝説など当てにならないと嗤う者が多かったが、「日本に鉄砲や蒸気船が来た時も、自分の
目でそれを見るまでは、最初は誰も信じられないものであった。何事も己の浅い見識から決めてかか
らず思い込まず、実物を見聞して確かめろ。」、それが勝の信条であった。

 勝の申し出を聞いた宮司、佐伯太郎右衛門達時(さいき たろうえもん たつとき)は孫の手
のことが記述されている義忠の日記を勝に見せ、代々の伝聞も話した。実は橘以来、誰もその孫の手
で雷を呼ぼうとした者はなく、むしろ恐れられて本殿の奥に安置されたままであった。
 勝はその孫の手を使ってみたいと達時に頼んだ。遠まわしに断っていた達時も、勝の実直な人柄と
真摯な態度に折れ、ついに孫の手を本殿から持ち出した。

 生成りの布に巻かれた2本の棒を携えた達時は、境内に待たせた勝に恐る恐るそれを手渡し、
その身を引いた。
 勝は布に巻かれたままの孫の手を持って、部下2名と共に裏山に登った。
 それからしばらくして境内で待つ達時に、裏山に突き刺さる稲妻が見えた。達時はその時の様子を
日記に書き残している。
 「勝様が裏山に登って半時後、確かに空は暗転し、裏山に雷が落ちた。ただし、凄まじい雷光と
は裏腹に、雷につきもののあの爆音はなかった。程なく勝様は降りてこられ、布に包んだ孫の手を私に
お返しになった。もはやご無用かと尋ねると勝様はこう言った。これは使うなと坂本が言った、これは
武器ではないと。付いていた2名の者はいずれも驚愕した表情をしていたが、口を固く結んで何も語ら
なかった。」

 その10か月後、勝が用いなかったこの孫の手を求めて淡志摩神社を訪れた者がいた。それは、
勝に同行して裏山に登った部下の一人、そしてもう一人、化幻玄師(けげげんし)を名乗る男で
あった。

Follow me!

Leave a Reply

Your email address will not be published. Required fields are marked *