11. 雷を掴む孫の手

 和歌山県和歌山市加太にある淡志摩神社(あわしまじんじゃ)には、およそ25000体の人形
が奉納されており、人形の宮と呼ばれている。この淡志摩神社の人形に紛れて、一対の孫の手が置か
れていることはあまり知られていない。この神社の宮司には代々、この孫の手の奇妙な力が言い伝えら
れている。この孫の手は、雷を掴むというのである。

 昭和に入って科学の進歩が民間にも科学的知識の浸透をもたらしたことで、森羅万象が科学的な
現象として語られることが多くなった。そういう時代の変遷に伴って淡志摩神社の宮司も総代も、孫の
手が雷を掴むという言い伝えを迷信と考えて疑うことなくない、思い出すことも希になってきている。
しかしこの神社に伝わる宮司の日記には、かつてこの孫の手で雷を掴んだことが記述されているので
ある。

 慶安4年(1651年)8月11日から数日に掛けての日記に、時の宮司・佐伯篤左衛門義忠(さい
きとくざえもんよしただ)はこう書いている。
「伊勢の国より旅人が来た。橘正雪(たちばなまさゆき)と名乗り、しばらく逗留を希望した。橘殿
は体のいたるところに傷を負い、逃亡中の様子であった。詳しいいきさつを問わず、橘殿を泊める。
離れの部屋に置いて食事と衣服を与え、道助(みちすけ)に世話をさせる。」
「道助によれば、橘殿の傷は切り傷や穴であり、刀や鉄砲によるものであろうと。大坂夏の陣から
36年も経て戦乱の世は過去のことであり、鉄砲による戦闘が容易にあるはずがない。」
「追手は御上か公儀かもしれない。しかし、橘殿の澄んだ目と堂々とした立ち居振る舞いを見れば、
悪人とは思えない。」
「傷もほどほどに癒えた晴天のある日、橘殿が裏山に登るというので付き添った。頂に着くと橘殿
は棒のようなものを二本取出し、空に向けて振り上げ交差させた。見れば、孫の手のような棒で
あった。その刹那、俄かに天空が雲に覆われ辺りは暗闇と化したかと思うと、目が眩むほどの稲光が
橘殿を直撃した。その雷を、橘殿は二本の孫の手で掴んだ。しばらくの間、五つ数えるほどの間か、
雷を捉えたまま直立していた。その様子はまるで、激しく暴れる光の蛇の尾を捕まえているようで
あった。橘殿は雷を放し、雷は宙に消えた。空は再び、晴天に戻った。不思議極まることであった。」
「裏山を降りた橘殿は、自分に二本の孫の手を預け、どこへともなく姿を消した。」
「橘殿は言い残した。あれは雷ではない。わが友、忠弥の霊気であると。」

 橘正雪と孫の手に関する義忠の記述はこれで終わっており、佐伯篤左衛門義忠の日記には出て
こないが、橘正行は淡志摩神社を去った六日後に駿河国(するがのくに)において自刃した。
この橘正行は由比民部之助橘正雪(ゆいかきべのすけたちばなのしょうせつ)であったことを、義忠が
知ったか否かはわからない。

  慶応4年(1868年)1月2日、時の宮司・佐伯太郎右衛門達時(さいきたろうえもん たつとき)
の日記に、雷を呼ぶ孫の手を探して訪ね人があったと記されている。日記に依れば、訪ね人の名は
勝安芳(かつ やすよし)、雷を操る孫の手の秘密を研究し、英国と戦う武器にしたいとの申し出
であった。

Follow me!

2 thoughts on “11. 雷を掴む孫の手

  1. Your place is valueble for me. Thanks!?

    1. Dr. Rodrichinko says:

      I really appreciate your words. Thanks!

Leave a Reply

Your email address will not be published. Required fields are marked *