8.老女は古寺を守ってきた

 過去に悲しい経験を持つ者が凰寿寺を訪れると出くわす老女、セミ。そのセミに悲しい過去を語った
者は過去をやり直し、後悔を絶ち、汚名をすすいだ。セミに頼めば過去を変えることができる、そうい
う伝わり方もあった。

 凰寿寺には一体の獅子像が置かれている。通常神社仏閣の入り口を守る獅子や狛犬は口を開いた
阿形(あぎょう)と口をつぐんだ吽形(うんぎょう)との二体一対であるが、凰寿寺では吽形(うん
ぎょう)のみがいる。その昔は二体あったがある出来事を境に一体となった。この一体の獅子がセミ
であるという言い伝えは昔からあった。それは、セミと会って過去に戻り我に返った者は皆、獅子像の
前にいたからである。

 寺院の入り口にいる獅子は寺院を守護していると思われているが、実は守護しているのは寺院ではない。獅子は寺院の周囲に群がる魑魅魍魎から参拝者を守っているのである。悲しみや後悔によって
傷ついた心を持つ者が参拝に来ると、本尊に近づくに従ってその心はさらに裸になり弱くなっていく。
それは仏に頼ろうとする気落ちがあらわになっていくからである。寺院の周りをうろつく魑魅魍魎は
その心の隙に付け込んで、参拝者を悪鬼へと変容させることがあるのである。それを防ぐために、獅子
は寺院の入り口にいて、魑魅魍魎が目を付けるよりも先に、悲しみや後悔に傷ついた参拝者の心を癒し
ていたのである。

 この獅子は、寺院の本尊が遣わした使者であり、本尊周囲の一定の領域にしか居ることができない。
過去に悲しい経験を持つ者が凰寿寺に近づくにつれ獅子に近づき、その者には獅子が老婆に見えるので
ある。老婆は、人が最も気を許し心を開く存在なのであろう。そしてその老婆に、まるで子供のように
悲しみや後悔の念を語るのである。老婆、いや獅子は、その者を過去に引き連れ、過去をやり直す機会
を与え、そして元の時間に連れ戻った。

 セミを探せ。1187年に安徳天皇の詔(みことのり)をもって凰寿寺に現れたのは平知盛であった。

 知盛はセミにまつわる伝承を調べ上げ、セミは凰寿寺の獅子像であると確信していた。知盛は付近の
農民に金を渡し、この獅子像を凰寿寺から運び出して自身の仮陣屋に移設させようとした。つまり、
凰寿寺本尊の領域から外へ持ち出してしまったのである。獅子の力が発揮されなくなったその瞬間を、
魑魅魍魎は見逃さなかった。

 魑魅魍魎の中の一体が知盛に入った。知盛は変貌した。壇ノ浦の合戦で失われた左肘から先に黒い
腕が生え、額からは黒い角が突出し、その両眼は青い光を発した。悪鬼と化した知盛は獅子に跨って
たてがみを掴み、火炎を吐きながら獅子を駆り立てた。石の獅子に乗った知盛は、もはや己の使命、
安徳天皇の下命を忘れ去っていた。そう、セミの力を借りて過去に戻り、義経軍を破って京を奪還
せよという勅命である。

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