7.創建2520年のお寺
2019年において創建2521年を迎えると言われる寺院があり、その周辺には奇怪な話が伝わって
いる。その寺院に参拝すると老女に出くわし、その老女と会話すると昔に遡ってやりなおせるという
のである。そういう老女との遭遇が果てしなく昔から語り継がれている。
創建2521年とは、皇紀158年、西暦では紀元前502年にこの寺が建てられたということを意味
する。創建年は信頼性の高い資料に記述されているわけではない、その周辺の人々の口伝による
ものであるが、人によって異なる数字が語られることはない。
その寺院とは、岡山県井原市芳井町の凰寿寺(おうじゅじ)である。平成に入ってこの寺に
住職はおらず、地元の人々によって辛うじて本堂と門が維持されているものである。
多くの者がこの寺の周りを歩く老女に会っている。その老女とは芳井町の住民ではない。
昔から芳井町一帯の住人にはその老女を見かけたり、その老女と話をしたことがあるという者が後を
絶たなかった。それらの者は皆、口を揃えて凰寿寺周辺以外では見かけたことはない、この辺りの
住人ではないと言った。世代に依らず、これはずっと昔から語り伝えられていることである。その
芳井町一帯の住人でないというが、その容貌をはっきりと覚えている人はいなかった。容貌や声となる
と、何も思い出せないというのである。ただ、人によってはその老女は名乗ったと言った。
名を尋ねると、セミと名乗ったというのである。
その老女に会った人はみな、自らの悲しい経験を話し込んだ。いや、悲しい経験を心に刻んだ者
の前にこそセミが現れたのである。セミに出くわした者はまるでそのために老女を訪ねたがごとく、
その悲しい経験を話した。全てをなぞるように語った。時間を忘れて話しに没頭し、そして、今なら
こうしたああしたと、ああはしなかったこうはしなかったと、その昔のできごとの後悔と悲しみを語り
尽くした。それを語り終え我に返ると、老女の姿はなく、凰寿寺の門の前に一人立つ自身の姿に気付い
たのであった。そしてその者は二度と、セミに出会うことはなかった。いや、出会う必要がなくなった
というべきか。自身が持っていた悲しい経験と重なって、過去に戻って過去をやり直し後悔のない現在
に至っている姿が頭に噴出してきた。それと共に、老女に会って人生をやり直したという意識は鮮やか
に残り、それを人に伝えそれが語り継がれた。こうして積み重ねられた伝承に伴って寺の創建年も数え
られてきたからこそ、数字があいまいになることがなかったのである。
セミを探せ、2500年余りの凰寿寺の歴史の中で、権力者からその指令が下されたことは何度も
あった。多くの伝承は他愛もない戯言とされて現実視されないものだが、苦境に立ち苦難の渦中に
あってその解決に手段を択ばない精力を持った者は、言い伝えさえ利用し使いこなそうとするので
ある。
セミを探せ、1187年の初頭に安徳天皇の勅諭を携えて、凰寿寺住職・宣明上人(せんみょうしょ
うにん)のもとを、共もなくただ一人で訪ねた侍がいた。左肘から先がなく朽ちかけた粗末な身なりで
あったが、深い刀傷痕の奥で鋭く光る眼光を湛えたその男は、全身からその炎のような生気をみなぎら
せていた。
平知盛(たいらのとももり)と名乗った。その名は、平清盛(たいらのきよもり)の四男、壇ノ浦の
合戦で源義経(みなもとのよしつね)と戦って闘死したはずの武将であった。