14. 虹の矢
夫と娘を失い、家を焼かれた毬は仏門に入って名を巳句羅(みくら)と改めた。 巳句羅は仏教の修行をしながら、夫・国香(くにか)と娘・丹々(にに)のことを思い出さない 日はなかった。生前の丹々から聞いていた銀色の鯉の話を、巳句羅はずっと他愛のない作り話と思って いた。丹々が自害した後で丹々の言葉を頼りに鬼怒川を探し回り、その鯉を見つけた巳句羅は、鯉から 聞いた。「国香は将門に討たれる」、これはその通りになった。 もう一つ、「将門はあなたに討たれる」、これはどういうことなのか。国香の軍勢は将門軍に打ち 破られ、反撃する力は残っていない。ましてや自分には、軍勢を指揮し将門と戦う器量など思いもよら ない。 しかし、それでも自分が将門を討つことができるものか。「鱗を通して将門を見よ、そうすれば 将門の死が見える」、この意味は分からなかった。しかし、自分が将門を討つ、その意思は静かに 巳句羅の心の中に定着していった。 壊滅した平国香の軍勢であったが、一命を取り留め、復讐の念に燃える武者はいた。その一人、 剣持萬蔵(けんもち まんぞう)は弓の名手であった。将門軍との一戦で左腕に重傷を負ってからは 弓を構えることができなくなっていたが、傷を癒しながら右手一本による剣術を鍛え、将門への報復を 画策していた。その萬蔵は、巳句羅のいる禅寺に密かに出入りし、国香の敵を討つべく一門の棟梁に なって欲しいと巳句羅を説得していた。 巳句羅は将門を討つ執念をその心に押し隠し、将門への報復は忘れて静かに隠れて生きるよう萬蔵を 宥めてきた。 ある日、巳句羅は萬蔵に弓の極意を尋ねた。もはや自分には弓を射ることがかなわないと萬蔵は 言った。巳句羅は重ねて、矢を命中させる極意はあるかと尋ねた。萬蔵はしばらく黙っていたが、 静かな鋭い眼光を巳句羅に向けて答えた、極意は念の集中にあると。 巳句羅は銀色の鯉の言葉を萬蔵に話した。萬蔵はその鋭い視線を巳句羅から虚空へとそらし、伝え 聞く弓術の奥義の伝説を話した。萬蔵もまだ見たこともないその奥義とは、矢の届かない彼方の的を 射るというものであった。その鍛錬方法が全く伝わっていないことから、萬蔵にとっても手の届かない 奥義であった。ただ奥義書に依れば、それを究める者は虹色の眼光を放つとされていた。 虹色の眼光と聞き、巳句羅は袱紗を取り出した。その中に挟んであった、数枚の鯉の鱗を見た。 虹色に光るその鱗は、巳句羅が最後に鯉と話したときに鯉の頭から取り上げたものであった。その鱗を 指に挟み、透かして見ようとした巳句羅を萬蔵は止めた。奥義書には、七色の光は命の光であると書か れていたからである。 将門追討の執念を明かした巳句羅は萬蔵の申し出を受け入れ、萬蔵に一門の招集を命じた。 それからおよそ8カ月の後、将門は馬に乗り、二十騎の武者と三百人の徒歩と共に鬼怒川沿いの土手 を北上していた。丹々が自害した浜に参るためであった。 この将門を、国香一門、45名の武者が襲った。将門を取り巻く騎馬武者は動かず、取り巻きの歩兵 がこの45人を迎え撃った。この2年余り、鍛えに鍛えた国香一門の武者は多勢を相手に奮闘した。 しかし徐々に疲れ、一人二人と討たれ始め、その半数が倒れたと思われたその時、鬼怒川対岸の林 から、7名の武者が姿を現した。その中に、黒い頭巾をかぶった尼姿の巳句羅がいた。敵味方の奮闘を 馬上から見守る将門は、対岸の尼を見た。 二百間(200けん、およそ360m)離れたその尼を 見た将門は、それが亡き国香の妻女・毬と気づき、目をそらさなかった。 岸に立ち、遠くに騎馬武者と共にいる馬上の将門を見据えた巳句羅は何も持たず、左手を将門に 向かって伸ばし弓を構える形をした。右手人差し指と中指には、虹色の鱗がついていた。将門を凝視し ながらその鱗を両目にあてたとき、巳句羅の頭に激痛が走った。倒れそうになる体を萬蔵に支えられ ながら、遠のく意識の中で国香と丹々の顔が浮かんだ。巳句羅は意識を取り戻し、再び弓構えで鱗越し に将門を凝視した。 胡麻粒ほどだった二百間先の将門の顔が巳句羅の眼前に迫った。その瞬間、巳句羅の両眼から 虹色の光が発せられ、将門の眉間に突き刺さった。巳句羅はその場に倒れた。 将門は突然落馬しその眉間には三角の穴が開いていた、それが将門を取り巻いていた武者の言葉で あった。将門の死を知った騎馬武者も徒歩も蜘蛛の子を散らすように散逸し、将門の遺体は国香一門に よって取り上げられ、首実検のために京都に送られた。 砂浜に倒れ込んだ巳句羅を抱きかかえ、萬蔵以下七人の武者は林の中に消えた。巳句羅の顔には 黒い涙が流れていたが、萬蔵以外その意味を知る者はいなかった。林を抜け、巳句羅を馬に乗せた萬蔵 は、巳句羅の胸元から紫の袱紗を取った。その中に、まだ虹色の鱗が残されていることを萬蔵は知って いた。