4.鬼の作った酒は紫色だった

 佐知助は妖怪と化して酒を造り続けている、そんな噂が佐知助を知る元鶴田村の住民から囁かれ始め
たのは、鶴田村が水の底に沈んで数年後だった。そして、時を同じくして夜明けの旭川の水が酒になっ
ているという噂も流れ始め、佐知助を知る人々は自然と、その旭川に出る酒は酒鬼と化した佐知助が
造った酒であると思っていたという。

 旭川貯水堤の完成が宣言され、村に水が溜まり始めてから村全域の水没に至るまでおよそ10カ月を
要した。その間、村を離れて行く人々は佐知助を放っておいたわけではなかった。むしろ多くの村人や
羽屋の職人たちは、佐知助を説得して共に退去するよう促した。堤工事が開始された時分は羽屋の移転
先探しに熱心な佐知助だったが、命の酒、鶴翔の再現に絶望してからは誰とも口を利かなくなり、杜氏
小屋の中に座ってふさぎ込む日々が続いた。そしていよいよ羽屋一帯に水が満ちてきたときは、羽屋の
職人たちが佐知助を担ぎ出そうとしたが、赤黒い顔に黄色く光る眼光を向けて櫂(かい、杜氏が酒を
混ぜる道具)を振り回す佐知助の鬼気迫る形相に恐れをなし、ついに諦めて佐知助を残して村を去って
行った。

 佐知助が親からその醸造法をただ一人受け継ぎ、岡山藩皇室献上酒として日本中にその名を馳せた
酒、鶴翔は紫色だった。

 酒、すなわち米を発酵させて作る日本酒は、充分な発酵を経たばかりの段階では乳白色である。
これが目の細かい木綿布で濾されて透明となり、火入れ(加熱によって酵母や麹菌を死滅させること)
を経て完成形とされる。これが現代の日本酒としてお目にかかる最も多い姿で、清酒と呼ばれる。昔は
この清酒以外に、目の粗い木綿布で濾されたり、濾さずに静置して上澄みを取り出したりした淡い白色
の状態も多く楽しまれた。現代でもにごり酒と呼ばれて出回っている。清酒もにごり酒も色はほとんど
なく、無色透明か白色か淡い黄色である。希に、発酵過程で行う追い水の代わりに酒を追加して作る酒
は褐色になる。

 紫色、佐知助の作る鶴翔は鮮やかな紫色だった。古来から日本では、紫色はもっとも高貴な色と
され、朝廷における位階にあっても紫の烏帽子は最上位のものであった。鶴翔が皇室献上酒となったの
も、その味わいの見事さと共にその類希で美しく高貴な色合いによるところがあった。

 佐気夫が酒を造るときは常に全神経を傾けていた。鶴翔造りに至っては他の職人の関りを一切許さ
ず、彼が一人ですべてを行い酒樽を睨みつけて他の者を寄せ付けない姿はまるで鬼のようであった。
この姿をして村人は佐知助を酒助、酒の鬼、はたまた鬼助などと呼ぶ有様であった。鶴翔を造っている
佐知助の凄まじい姿を知る者は、彼が水に沈んでなお妖怪となってまでも酒造りを続けているという
噂に、さしたる不思議を感じていなかったのである。

 旭川にあって八幡温泉付近のみが、その水面が朝日に照らしだされた一瞬だけ紫色を呈する。
その刹那、その美しさに川の水を汲んだ者が、それが見事な酒であることに気付いたのである。そして
その美しい紫色から、それは鶴翔、つまり佐知助が造った酒に違いないという話しとしてその地域に伝
わっていったが、その鶴翔を味わおうと日の出の旭川を訪れるほとんどの人々は、旭川から紫の酒を
汲み上げることはなかった。汲み上げることができたのは、ある共通した特徴を持つ人々であった。

 旭川に鶴翔が湧く、そういう言い伝えが150年近くにわたって細々と語り継がれてきた過程で
鶴翔の名はほとんど忘れ去られ、川の水が酒になると言われるだけになっていた。

 ところが、どこからともなく鶴翔の名を聞きつけ、旭川に湧く鶴翔を求めて現れた男がいた。
1910年のことである。
 その男は、化幻玄師(けげげんし)・武良喜太郎(ぶら きたろう)といった。妖怪を探して
日本中を旅している男であった。

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