3.良いコメと良い環境は良い酒を生む

 妖怪が酒を造っている、そういう伝承が密かに伝わる岡山県旭川湖のある地域は、1815年に水没する
までは、平和で豊かな村だった。
 そこは岡山藩備中鶴田村、周囲の山から旭川河畔に向かって幾重にも配置された棚田が豊富な作物を
もたらしていた。安定した水量によって、農地あたりの米の収穫高も高く、その 米と水を用いた酒造り
も長い伝統を持っていた。一部の酒は岡山藩御用達の神酒として、皇室への献上銘柄 にその名を馳せて
いた。その銘柄は鶴翔(つるはね)といった。
 鶴田村の名は、この棚田の一角に毎年舞い降りるタンチョウに由来する、すなわち鶴の舞い降りる
田のある村というのがその起こりであると言われていた。そして鶴翔は、その優美で高貴な味わいと
後味の切れの良さをして鶴の飛び立つ姿に準えたと言われていた。
 この鶴翔は一軒の農家によって代々醸造され、その醸造法は門外不出とされていた。鶴田村が湖の
底み沈む、その計画が発布された当時、杜氏として鶴翔の醸造法を取り仕切っていたのは佐知助だった。
 佐知助は農民であったが、その酒作りの腕が認められ、羽屋(はねや)という屋号を特別に許されて
いた。

 鶴翔は皇室献上銘柄として一般への流通は許されなかったが、羽屋が作る他の酒は広く岡山藩内外に
重用された。羽屋の酒は、鶴田村の他の作物と同様に、宿駅に集められて運送業者によって大八車で
各地に向けて運搬された。その宿駅は、現在のJR東日本津山線建部駅付近にあった。

 村が湖の底に沈む、その知らせを受けたとき佐知助も他の村人同様に意味が理解できなかった。
近代に至ってダムは珍しくないが、1800年代初頭当時の治水事業として旭川貯水堤は日本で前例の少な
い大規模なものだったのである。その規模によって、それまで見聞したことのない村の水没という途轍
もない事態が予告された。
 庄屋を通じた岡山藩普請奉行からの工事開始連絡では、堤の完成まで4年、村の水没まではさらに1年
の期間があり、その5年の間に鶴田村全域の住人の立ち退きが言い渡されていた。立ち退き後は、普請
奉行所が勧める地域への移住が告げられていたが、その土地にあるのは鶴田村のような完成された田畑
ではなかったために、6年の間に村人自身で整備せよとの通達であった。

 佐知助も移住地を探した。しかし、普請奉行所から勧められている地域に仮の杜氏小屋を作り酒を
造ってみたものの、鶴翔は再現できなかった。さらに他の土地に仮の杜氏小屋を建てたり、近隣の村に
いる知り合いの杜氏のところで試させてもらったりと八方手を尽くしたが、やはり鶴翔を再現できない
まま5年の月日が過ぎて行った。杜氏とは言え、佐知助、いや当時の人々に米から酒ができる詳しい
メカニズムはわかりようもない。酒に限らず、現代で言う発酵食品は全て、原材料に作用させる微生物
の種類と生育条件が、その発酵食品の味と質を決めるのである。米を酒に換えるのは、麹菌と酵母で
ある。移住によって杜氏小屋を替われば、そこにいる麹菌も酒酵母も違ってくることから、できる酒
の味も違ったものにしかなりえないのである。佐知助が昔からの鶴翔の味にこだわる限り、違う土地
では造れない。

 佐知助にとって鶴翔はただの酒ではない。それは皇室献上酒であるということ以上に、両親から受け
継いだ自身の命そのものだった。だから佐知助が鶴翔に違う味を許すことはできなかったのだ。

 佐知助は最後まで鶴翔の杜氏小屋の中から離れず、ついに旭川湖の底に沈んだ。

 この数年後からである、旭川の水が酒になっているという噂がこの地域に出始めたのは。

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